Raphael
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 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。(中略)
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
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 イエス様が、死者を甦らせたことは3度あります。ナインでやもめの一人息子を(ルカ7:15)、ベタニアでマルタとマリアの兄ラザロを(ヨハ11:43;ラザロの場合は4日も墓に入り腐敗が始まっていた!)、そして今回の会堂長の12才の娘を。
 死んだ少女を取り巻く人々にイエス様は、言いました。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」。この少女は「本当」に死んでいました。しかしイエス様は「眠っていた」と言ったのです。そして死から甦らせました。
 ここに記されたことは、間違いのない奇跡物語です。しかしまたヤイロの会堂長の少女だけでなく、すべての人に当てはまる話だと思います。
 アダムとエバの罪によって死が入り込んだと聖書は教えていますが、とにかく人間は死ぬものです。それは避けられない現実です。しかし人間の死とは、イエス様、そして神様にとって、ただ眠っているようなものに過ぎません。人間はこの世的に見て確かに必ず死ぬのです。しかしそれだけで終わることはないのです。永遠の命を人間は持っているのであって、いつか魂・霊が体と共に起きあがり、すべて人は神の御前に立つことになるのです。
 第一朗読にあったように「神は人間を不滅な者として創造し、御自分の本性(つまり神)の似姿として(人間を)造られた」(知恵2:23)のですから。

 私は成人洗礼ですが、信者である今とそうでなかった時との、一番の決定的な違いは、永遠の命を知っていると言う点です。この世のことがすべてと思えば、自分本位に、この世での幸福を最優先に求めたに違いありません。 しかし永遠の命を知れば、もっと長い目で、この世で大切とされる富や名声、成功、幸福をすら二次的なものとして、見ることができます。この世で評価されず、この世での報いが少なくても、あるいは自分の命を場合によっては差し出しても、神が喜ばれることをしたいと望むことも可能になるのです。 第二朗読で読んだような慈善の業も、この永遠の命と言うことから捉えれば、よりたやすくできる。私もそう信じたからこそ、仕事や家族を差し置いて、司祭をめざしたのでした。
 でも洗礼を受けても、ずっと、本当には信じていなかったと思う。
 本当に魂が永遠にある? 本当に天国がある? 本当に体ごとの復活がある?
 これらはキリスト者にとり、どんな聖人であろうと、一生問いかけられる、絶えず降りかかってくる難問であり続けます。 私自身これらを心から信じられるようになるには、洗礼を受けてさらに10年くらいかかりました。私にとって「疑い」から「信じる」に変わっていく。その過程は、やはり徐々に信じる心が深まって、立派な信者になったから。そういうものでもありませんでした。むしろ信者としての生活の中で、かえって信仰から離れ去るような行為。それらが逆に、永遠の命を確信するようになるきっかけになったようです。
 たとえば私はある人の人生を変えるほど人を傷つけたことがありました。また母が、司祭をめざす私と激しく対立し、その最中、くも膜下出血で亡くなったこと。こうした人たちとの和解は、この世ではできないことで、互いに理解し合うことはもうないのです。しかしだからこそ、いつかあの世で絶対に和解できるとの期待を強めていきました。また司祭をめざす中、いろいろな別れも体験することになりました。しかしこの世では離れて暮らすけれど、きっと天国で、近くにいられるとの期待を持っていくことになりました。
 あるいはこんなことを思う人がいるかもしれません。悲惨な犯罪や事故の被害者となって、幼い命が奪われた。あるいはまったく正しい人が、不正義によって殺された。こうした世の中の現実を見たときに、これでこの人の一生が終わってしまうはずがない。この人やその家族が報われないはずがない。そこで永遠の命を期待し、確信し、それが信仰となっていく。
 こうした体験の一つひとつ。信じて前に進むのか、信じるのをやめて後退するのか。その決断を迫られながら、永遠の命があることを要求しながら、かえって永遠の命への信仰を固めるものだと思います。それは単純に信仰が深まると言うよりは、自分の弱さとか過ちとか、そう言うものがきっかけになることもあります。それでも、だからこそ、信仰が深まる。そう言うこともありうるのです。
 きっと私、私とかかわったすべての人たちが、死んで、肉体の眠りにつき、魂が浄めを受けた後、「起きなさい」と呼びかけられる。その時、霊と肉が再び結びついて、皆、起きあがる。この世で傷つけ合った人、別々に生きた人、別れた人、そういう人が再会し、互いに認め合い、和解し合い、喜びに浸る。きっとそんなことがあるんだろうと、確信します。「死んだのではない。ただ眠っているだけ」「起きよ」。そのことを信じ、安心し、救われる方を生きていきましょう。

 それにしてもキリスト者の生き方は、いつもどこか選択を迫られつつ生きていくものです。
 たとえば娘が生き返った後、この会堂長、つまり会堂に属するユダヤ人の指導者ヤイロ(マタ9:18)の生き方はどうなったでしょう?単純に幸福になったのでしょうか? そうではないと思います。
 もしもイエス様に付き従ったなら、会堂長は自分の仕事を失ったはずです。キリスト教徒はやがて、会堂から追放されるようになるのですから。(ヨハ9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」。他にヨハ12:42、ヨハ16:2)。
 もしもイエス様を迫害したならば、娘を死から救われたのにと言うことで、神の厳しい裁きを受けたかも知れません。ヤイロもその娘も、深く悩んだことでしょう。
 すべていいことばかり、ということはありえないのです。 イエス様を産んだマリアは、同時に、子が十字架にかかるという悪夢を見なければならなかったのです。剣がいつも心に刺さっていました(ルカ2:35)。ヤイロの娘もヤイロも死から救わた代わりに、この世で、苦労して生きたに違いないのです。
 キリスト者は、この世で生きるので、この世の幸福を願っていいのです。しかしそんな中でも、神の意志を感じ取り、それを大切にして、生きることが必要です。そしてそのバランスの中で、生きていくのです。
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