Raphael
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聖木曜日【ヨハ13:1-15、Iコリ11:23-26】園田教会 2006年

あいさつ:皆さん、きょうから始まる、一年に最も聖なる三日間の上に神の豊かな恵みを願い、信頼と望みをこめて、ミサ聖祭を始めたいと思います。

この夜、私たちはイエス様が十字架に付けられる前に行われた最後の晩餐を記念します。この夜イエス様は、共に三年間生活をともにして歩んで来た弟子たちがやがて自分を裏切り、自分を否定すること。ヨハネ以外、皆、自分から離れていってしまうこと。その悲しみを味わった上で、それでも、だからこそ、弟子たちに大切なことを2つ伝えました。一つは、パンとぶどう酒をご自分の体として弟子に分け与え、永遠の命にいたる糧として制定する儀式。つまり最初の感謝の祭儀・ミサがこの夜、イエス様自身によって行われたことです。
 それからもう一つは、このようにパンとぶどう酒をイエス様の体にして人々の糧にすると言う式を、イエス様を「(記念するために)思い出すために、このように行いなさい」と弟子たちに永久に託したことです。つまり感謝の祭儀、ミサをする権限を弟子に与えた。弟子を司祭にしたのもこの晩だったのです。いわゆる叙階式でした。そこでこの日には、聖香油のミサを行い、司祭職の制定も祝うのです。皆さん、司祭職は教会にとっては欠かせないし、大きな恵みであります。きょう司祭職のために感謝をささげることとしましょう。

 さて、この感謝の祭儀・ミサと司祭職の制定の前、イエス様は「神の子とはこういうものだ」とはっきり行いで示します。弟子の足を洗うと言う儀式です。
 伝統的にこの式を教会も行いますが、毎年のことでも、躊躇される方もいます。ましてこの業を目の前で見た弟子にとっては、いきなり先生であったイエス様が自分たちの足を洗い始めたのには、びっくりしたことでしょう。
 「私のしていることは、あなたには今分からない」。弟子たちには、まだその場では分からないことがありました。イエス様はたくさんの人に仕えてきました。貧しい人、病気の人、闇の中にある人。そういう人のため休む間もなく働き、自分のために何の利益を取っておくことない、政治的な利得をまったく求めないイエス様の献身的な姿を見てきました。そして差別された人を守ったあげく、宗教権威者と言い争い、追い込まれる場面を、何度もみてきました。イエス様はこのようにして人に仕えてきたものでしたし、弟子たちもそれに従ってきました。しかしイエス様のとなえる「仕える道」とは、この弟子たちの常識を超えるものでした。
 イエス様の仕える道とは、死に至るまで、それも十字架に死に至るまで、へりくだって仕える(フィリ2:8)ことでした。間違った宗教権威者の裁きに従って、自らが十字架上の生け贄になり、それによって、すべての人、イエス様に反対し、逆らうものにまでも、愛を示し、救おうとする、常識はずれの仕える道でした。
 実は足を洗うことくらいは、それほどまでの仕えるイエス様の道のりの、ほんの序の口のエピソードに過ぎません。それでも弟子たちには受け入れがたいものでした。しかし弟子たちがこれから陥る重大な罪による汚れと比べれば、まだまだたいした汚れなどありませんでした。あらかじめ弟子たちの足を洗ってもらった弟子たちは、やがて大きな罪を犯し、汚れを負うことになります。神の子イエス様を裏切り、そんな人知らないという重大な不誠実さです。その不忠実さに陥ったとき、弟子たちは、心も身体全体も汚れます。そしてそんな弟子ですらまたイエス様によって赦され、清められたのでした。
 そしてキリストによる(上からの)縦の赦しに支えられた者同士が、自分たちの弱さを認め、許し合い、またイエスの教えのもとに一つになり、何もないところから教会を形作っていきました。つまり教会における横の赦しと助け合いも可能になりました。
 だからたとえ公然となったような罪を犯した人でも、神様によって赦されたなら、その人が属する教会共同体が、その人を本当に赦し、受け入れ、同じ仲間として共に支えていく。それがなければ、たとえ神に赦されても教会で生活できないのなら、神の赦しは意味を持ちません。イエス様が十字架にかかってまでその人を赦された。だからこそ教会の中でも、互いに支えあい、赦しあって、歩んでいく体験がなければ本物の教会と言えないのです。教会とはそのような愛とゆるしの共同体であるべきです。そのような教会共同体を築いていけるよう、努力していきましょう。また、キリストのなさることは分からないままにしておくのではなく、わかるようにこの聖なる三日間はより深く反省し、祈りたいと思います。皆さん、ちゃんと心の準備して今年の復活祭を迎えることにしましょう。



人を愛し抜くこと、愛の極みがどういうことかを私たちにわかる形でイエスは身をもって示してくださっているのではないでしょうか。上着を脱いで身をかがめ、人生を歩んでゆく足の汚れを洗うこと、ご自分を死に渡されること、そしてそこに真実の「幸せ」があることを。
主よ、わたしもイエスに倣って_人々に仕えながら生きることができますように。

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ミカエルが、もと
ミカエルが、もとと大きい自分とかをヨハしないみたい。


【2006/06/25 13:30】 URL | BlogPetのデルフィーヌ #-[ 編集]
きょうネコ飼いで
きょうネコ飼いで、人に復活された!
そこでネコ飼いと人へ制定しないです。
【2006/06/25 11:39】 URL | BlogPetのインマニュエル #-[ 編集]
不誠実など仕えな
不誠実など仕えながら生きることができますよう
セバスチャンたちが、ネットでないところからミサ聖祭など許し合い
広い最後とか行いますが
ガブリエラミスティカは、ネットで教えとかを生活したかったの♪


【2006/06/24 18:44】 URL | BlogPetのガブリエラミスティカ #-[ 編集]
ネットで最初とか
ネットで最初とか、ないところから教会とか貧しい十字架とか神様や、豊かを努力したかったの♪


【2006/06/24 16:30】 URL | BlogPetのジュスト #-[ 編集]
キャットが飯田さ
キャットが飯田さんと晩をびっくりされたみたい…
そしてここに飯田さんがここに真実叙したかったみたい。
また飯田さんでびっくりしたかも。
【2006/06/24 16:15】 URL | BlogPetのキャット #-[ 編集]
チェナクルムたち
チェナクルムたちが、不忠実とかを

あいさつしたかった。


【2006/06/22 17:50】 URL | BlogPetのチェナクルム #-[ 編集]














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