Raphael
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「私が愛したように、あなたがたは互いに愛し合うこと」、これはキリストがもたらした新らしいおきてと言われるものです。新しさとはどこにあるのでしょうか。
旧約聖書にも隣人愛に関するおきてがありました。しかし、それは、キリストが与えられたおきてと比べてみると、だいぶちがいがあります。旧約のレビ記は、隣人愛についてこう記しています。「隣人を自分のように愛せよ」(レビ19・18)。ここでは隣人愛の基準が、「自分」になっているのに対して、ヨハネ福音書では、「キリスト」になっています。つまり、「キリストが愛したように」ということです。じつに、ここに新しさがあるわけです。キリストがわたしたち人間に対して示された心と行動が、・隣人愛の理想としておかれるわけです。これは、最後の晩さんの時に、とつぜんキリストがいわれたことではなく、山上の説教ですでにふれていることです。「天の父は、悪人の上にも、善人の上にも、太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあろうか。徴税人でさえもそうするではないか。また自分の兄弟だけに.あいさつしたからといってなにかとくべつのことをしたのだろうか。異邦人でさえもそうするではないか。だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・45~48)。「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とは、その脈絡から、隣人愛についていっているのは明らかです。天の父が人びとを愛し、つつみ、働きかけていくのと同じような、愛の完全さを、キリストは人びとに求めているわけです。「キリストが愛したように」「神が愛するように」人びとを愛する。考えてみれば、これほど、たいへんなことはありません。わたしたち人間にはとうていできないことです。わたしたちは、神と異なって、エゴイストです。自分の心のどこかにかならず、自分を優先する心が生きているものです。他人のことよりも、自分の望み、自分の生活を先に考えてしまいます。これがわたしたちの真実な姿です。
たとえ、他人の幸せを考え、働きかけることがあるとしても、どれほどの真実な心をこめたものかわかりません。さまざまな打算や下心があり、たとえそれが愛ということばで表現できるものだとしても、きたなくよごれたものです。真実で純粋な愛からは、はるかにかけ離れた、カのない弱々しいものです。しかし、キリストは、わたしたちの汚れ、わたしたちの弱々しさを十分承知しながら、理想を高くかかげられたのです。そこに福音のすばらしさがあります。キリストはわたしたちの現実、わたしたちの罪ある婆を、わたしたち以上に知りながら、それに妥協せず、高い理想をわたしたちに与えていらっしゃるのです。高い理想、それは、たしかにわたしたちの力では実現不可能なことです。

しかし、「神にはおできにならないことはない」のです。神の恵みによってなら、可能なことなのです。ですから、まず、わたしたちは、高い理想をしっかりとみつめるべきです。自分には不可能だからといって、あきらめたらなにもなりません。それこそ、不信仰といわれるものかもしれません。理想を捨てたクリスチャンは本当に哀れなものです。不可能なことこそ、しっかりと自覚しながら、けれど、恵みによってかならず可能となるという確信が必要です。そうしてこそ、私たちは、自分の泥沼、自分の弱さからぬけだせるのです。そうでなければ、救いがないということになります。(森)

  では、なぜキリストがこんなに高い理想を掲げたのでしょうか。理由は11節にあります。「私がこのようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるためなのです。」ヨハネ15・11
私たちはいつも、自分の喜びを求めています。しかしめったに、喜びに満たされることはありません。喜びがあっても、それは非常にはかないものです。それは私たちの求める喜びが、往々にして人から期待するもの、ないし奪ってくるものだからでしょう。自分が喜んでも、だれかが迷惑しているのなら、それは本当の喜びとは言えないでしょう。私たちはどうしても、他の人の喜びよりも自分の喜びを優先したいのです。しかしそれでは、満たされる喜びにはけっしてならないでしょう。イエス様は「私の喜びがあなた方の中にあり、あなた方の喜びが満たされるように」と言います。イエス様は私たちの喜びを奪うのではなく、ご自分の喜びを与えてくださるのです。私たちは自分の喜びより、イエス様の喜びを求めなければなりません。そうでなければ、私たちの喜びは満たされません。本当の喜びは人から奪うものではなく、与えるものだからです。与えることによって、私の喜びは満たされるのです。私たちの求める喜びが、けっして満たされることがないのは、私が「私の」喜びを求めるからでしょう。しかしイエス様は、「私の」喜びがあなたたちの中にあり、「あなたたちの」喜びが満たされるように、と言います。つまり私が「私の」喜びを求めるのではなく、イエス様の「私の」喜びを受ける時、私の喜びが満たされるのです。では、イエス様の言う「私の喜び」とは何でしょう。奪われることのない喜びとは、それは第一に、御父から愛されている喜びでしょう。これは、けっして失われることのない喜びです。御父から確実に愛され、その愛に包まれていることを信じ、知ることです。そして感謝することです。どんなに御父の愛が信じられない時も、御父から見捨てられたとつらく感じる時も、御父が私を捨てるはずがないと確信することなのです。イエス様も十字架の上で、神から完全に捨てられたと感じた時も、なお御父を信じ、愛し続けられたのです。ですから第二は、御父を信じ、愛せる喜びでしょう。十字架上のイエス様の苦しみを支えていたのは、このゆるぎない喜びだったでしょう。たとえ神から捨てられたとしても、私は父を信じ、愛しきります、という喜ぴです。この喜びもまた、だれも奪い去ることができません。これこそ真に宗教(信仰)的な喜びです。私たちには、人間的な喜びがあります。おいしいものを食べたり、親しい人と会ったり、願ったものが得られた時などです。また同時に、人間的な悲しみもあります。失敗したり、人間関係のトラブルで悩んだり、解決できないジレンマにはさまれたりした時です。しかしキリスト(信仰)的な喜びは、そのどちらにも浸透します。人間的な喜びの中にもキリストの喜びが満ちており、人間的な悲しみの中にも、キリストの喜びが満ちているのです。つまりどちらにも含まれ、その二つの矛盾したものを止揚する(結んでたかめる)絶対的な喜びなのです。御父に愛され、イエス様に愛され、イエス様を愛し、御父を愛し、隣人と互いに愛し合う喜びこそ、イエス様が与えてくださる喜びの源なのです。(静)





聖霊降臨の主日B ヨハネ福音15:26-27,16:12-15 園田

Weblog / 2006-06-04 08:36:42

聖霊降臨の主日B

ヨハネによる福音(15:26-27,16:12-15)

あいさつ・招き

皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また教会共同体の歩みの上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今日のミサを捧げることといたしましょう。


「今日は聖霊降臨の祝い日です。」主が復活され50日が過ぎ、祈っていた弟子たちに聖霊が降りました。これを記念する日です。
聖霊は炎の舌の形で使徒たちの上に降ります。以前は恐れて家に閉じこもっていた彼らが皆の前で神の業を告げ知らせます。遠い所から集まって来た人々が自国の言葉であるかのように彼らの話を理解することができたというのです。使徒たちは聖霊の息吹を受け、平和とゆるしと命の福音を伝える言葉を見出したのです。「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
一人一人が自分の置かれている文化の中で、理解するのです。こうして皆が、お互いを理解しました。聖霊は言葉の違いを超えて、諸国の民に真の神を知らせ、一つの民にします。罪によって互いに理解できなくなっていた人々を、一つの信仰に集めます。聖霊の賜物は弟子たちの共同体をメシアであるイエスを証しする新しい神の民に変容させました。ですからこの日は教会の誕生日でもあります。
この交わりにおいて各メンバーは独特の役割を果たしています。自分に与えられた賜物に従う時、神の民として働いているのです。
ときどき自分に閉じこもってしまうことはないでしょうか。聖霊に動かされて、自分から出て、人のために生きると、それこそが充実した人生であるとわかります。与えられた賜物は天の父からの招きでしょう。苦しむ人、不正を受けている人、飢えている人、世の不条理を味わっている人に神からの愛を伝えましょう。おびやかされている命を守りましょう。今日、弟子たちと共に聖霊の恵みを祈り求め、天の父の御心を果たす喜びを生きていくことができますように。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(26節)。このように、聖霊について簡単に述べられています。この聖霊こそが、まことの弁護者であり、私たちがいかなる状態にあっても、励まし、力づけてくださいます。また間違いをおかしていたら、ただしてくださるでしょう。
 パウロは、「"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ローマ8:26)と言いました。
 そういう風に「聖霊が私たちを導いてくださる。イエス・キリストと一つにしてくださる」という信仰を持って、自分を謙虚に見つめながら、苦しみにあう時には、イエス様の姿を思い起こしながら、苦難に打ち勝っていきたいと思います。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」(12節)とおっしゃいました。私自身、「この復活説の間ヨハネ福音書を読んで解説してきたが、難しいなあ」と思っていたのを、何だか見透(みす)かされている思いがしました。「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)と付け加えられています。「弁護者」と呼ばれた聖霊が、ここでは「真理の霊」と呼ばれます。聖霊は、私たちに真理を悟らせてくれるからです。
 「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」(13節)。ここで聖霊の二つの大事な働きについて述べられています。一つは、「自分から語るのではなく、(父なる神やイエス・キリストから)聞いたことを語る」ということ、もう一つは、「これから起こることを告げてくれる」ということです。 つまり、イエス・キリストのことを思い起こさせてくれるということ、キリストから離れて行ってしまわないように。しかしながら、それでいて同時に過去のものになってしまわないように、「いつも新しくイエス様の言葉がよみがえってくるという形で、私たちに何をすべきかを教えてくれる」。それが聖霊であろうと思います。

 さてそういう風に弟子たちに慰めと励ましを与えつつ、「いくら言葉を尽くしても、あなたたちは今理解することはできないだろう」と言いながら、言葉を置いていかれました。この時弟子たちは、まだ不十分な理解のまま、これらの言葉をあたためていったのでしょう。そして十字架と復活の後に、「ああイエス様がおっしゃったのは、こういうことだったのか」と、新しく聖霊に教えられていったのではないかと思います。
 そのことは今日の私たちにもあてはまることであります。聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。
 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。宝の持ち腐れをしているクリスチャンは結構多いと思います。

私たちは赦しの秘跡、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。
 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。
 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。
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