Raphael
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復活節5主日 B【ヨハ15:1ー8 イエスはまことのぶどうの木】キリスト教会ミサ聖日礼拝説教
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
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 「私につながって、実を結びなさい」。これが、最後の晩餐におけるイエス様の遺言です。逃げまどう弟子、裏切ることになるユダ、さらには現代、同じキリスト者の名の下に争い合っている世界。それらをすべて知っているイエス様がこのように語ったのです。ここで今風に、今日のたとえをさらに置き換えてみましょう。
【携帯電話のたとえ】
 神様は携帯電話会社。イエス様は無線基地。アンテナから発信される電波が聖霊。人はもともと、いつも携帯電話を持つことで、神様とつながっていました。それでいつ、どこにいっても、安心できていた。だから携帯電話は驚くべき速さで普及し、実りをあげていました。
 神様は管理人。たえず無線基地を増やし、電波の流れを計算し、出力をあげ、携帯をいつでも、どこでも、良い音でつなげようと努力していました。アンテナを立てるため、地元の住民と何年も交渉したことがありました。ほとんど人が入らないような場所にアンテナを立てに行ったこともありました。そしてアンテナを立てているとき、足をすべらして死ぬものもいました。
 神様は語ります。「つながらない場所をなくすために、どれだけ働いたかあなたは知らないのか。音をよくするために、たえず施設を改良してきたことを知らないのか。誰にでも使えるようにと価格を下げ、使い勝手をよくする努力をしたのを知らないのか(イザ5:1-5)。確かにそうして携帯を持つ人口は増えたのに(詩編80:9-12)。
 そうしていつでもどこでも良い音でつながろうとしてきたのに、人間よ。あなたは自分の都合の悪いとき、自ら電源を切ってしまう。そうしてその間、特別の時間を持っている。または人間よ。あなたは自分の不注意でバッテリーを切らしてしまう。また自宅に置き忘れ、ついにはどこかになくしてしまう。また支払うべき料金を払わず、停止されてしまう」。
 また神様は語ります。「携帯が無線基地局とつながっていないなら何の役に立つのか(エゼ15:2-5)。なぜあなたは電源を切り、バッテリーが切れた状態のまま平気でいるのか。つながらない携帯に何の用があるのか。そんな携帯は解約し、資源ゴミに出すしかないではないか」。
 無線基地とつながっていなさい。電源を切らず、充電させていなさい。いつも、たえず、最後まで持っていなさい」。
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 携帯電話は便利で、人間にとって実り多いもので、だからこそ普及しました。電波は今もたえず一人ひとりの人間とつながりを持つべく、発せられています。しかしその携帯の実りも、人間は自ら、あるいは不注意で、ないがしろにしてしまうことがあります。それはいつも人間の側の責任であり、使われないままの携帯電話なら、何ら実を結ばず、投げ捨てられるだけなのです。
 イエス様は、何としても人間を救いたい。一人残らず救いたいのです。そのためにこそ十字架にかかったのです。無駄死にはしたくないのです。「裁くためでなく、救うために来た弁護人」なのですから(ヨハ12:47、Iヨハ2:1)。
 しかし実を結ばないものを裁く父なる神がいることも紛れのない事実です。裏切ったユダはイエス様と深い関わりを持ちながら、イエス様のゆるしを信じず、自ら自殺し、救いへの招きを絶ってしまいました。拒むのはいつも人間の側です。イエス様はいつも人間につながっていることを欲しています。だからこそ、そのイエス様につながって、その言葉を守り、清いものとして、何としても実を結んで欲しい。そのようなイエス様の奥底からの叫びが聞こえてきます。
 イエス様につながって実を結んでいるかどうかは、愛がそれにより実っているかによって分かります(Iヨハ3:18)。実りに愛が実現されていなければ、たとえ神のため一所懸命働いていても、それは独善、偽善で終わっている可能性があります。ちょうどイエス様に出会う前のサウロが、神のために働きながら、キリストの教会を迫害していたように。愛が生じ実っているのか。このことが真の実りかどうかの目印になります。
 正義、正しいと思うことを主張すること。その時、とかく愛を忘れ、裁き、切り捨て、独善的になりがちです。教皇ヨハネパウロ2世が明確にしましたが、過去のユダヤ人、プロテスタント教会、他宗教との関わりには、反省すべきところがあるのは、そこでは正義の名のもとに愛が忘れてしまったからです。

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