Raphael
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ヨハネによる福音書
11章
11:17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
11:18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
11:19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
11:21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

11:28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
11:29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
11:31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
11:32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
***
1)死の圧倒的な力
私たち、人間にとって、最大の敵と目されるものは、死です。
この死にはいろいろな種類があるようです。肉体的な死、精神的な死、霊的な死、関係における死などです。
そして、世の中には、私たちに死をもたらそうと考えている存在者がいるのです。すべてが私たちの味方ということはないようです。イエス様はヨハネの10章に羊を狙う強盗の存在を語りました。私たちを傷つけ、殺そうと狙っている存在者があるのです。サタンは最初からそういうことしか考えていないのです。罪が死をもたらし、罪が怒りをもたらし、怒りは関係における死をもたらします。それらを解決しながら生きていくのは大変なことです。
死は、罪によってもたらされます。死は怒りによっても引き起こされます。
死は誘惑者によってももたらされるのです。私たちの周りには死が潜んでいます。

2)私が「復活、いのち」
私たちに死をもたらし、分裂をもたらそうと狙っている存在者がいる反面、
神様は、私たちに「いのち」をもたらそうと考えておられます。これは肉体
的な長寿ということではなく、関係における命であり、霊的な祝福としての
「神様とともに生きるいのち」です。
イエス様は、私たちに文字通り、いのちを届けるためにこそ、きてください
ました。私が復活であり、いのちなのですとイエス様は言われました。
でも、私たちが命を得るためには、イエス様が私の身代わりに「死」を通過
しなければなりませんでした。私たちの生まれながらの存在は「神様と断絶
しており、罪をもっており、永遠のいのちにふさわしくない」ものなのです。
だからこそ、イエス様は、私たちの内側にある「死の素材」を全部十字架で
処分してくださったのです。
イエス様がくださるいのちは、「神様との関わり」「神様とのきずな」に基
づくいのちです。長さだけが問題なのではありません。むしろ、質的なもの
が重要なのです。「神様のいのち」「神様とのいのち」を与えてくださるの
です。永遠のいのちとは、「永遠なる神様との愛のきずなに生かされるいの
ち」のことです。
私たちは今、その絆の中に入れられ、今、そのいのちを味わい始めることが
できるのです。

3)イエスは涙を流された

イエス様はマルタが愚痴をこぼし、マリアが絶望し、周囲の人たちがラザロ
の死について絶望的になっているのをご覧になり、「死」に対して憤りを覚
え、「死の怖れに絶望している人たち」に対して同情の涙を流されました。
神様は、私たちにいのちを届けようとしているのです。
神様は、私たちを生かそうとし、私たちとの絆をしっかりと修復しようとし
ておられるのです。だからこそ、イエス様は来てくださいました。

イエス様は、今、私たちが絶望に打ちひしがれている状況あるなら、それに
対して涙を流してくださいます。一緒に痛みを分かち合ってくださいます。
その涙は、ラザロを復活させる愛の涙でもあります。
この物語では、イエス様はラザロを復活させます。
死んでいたラザロが墓から出てくるのです。
もちろん、このラザロの復活はイエス様の復活とは違います。
ラザロの復活は単なる死からの肉体的な蘇生ですが、イエス様の復活は栄光
のからだへの復活だからです。
もはや、死に支配されない栄光の体にイエス様はよみがえられました。そし
て、その栄光のからだを私たち信じる者たちに提供してくださるのです。
私たちは絶望に打ちひしがれ続ける必要はありません。
悲しみの中に置き去りにされ続ける必要はありません。
よみがえりの希望があるのです。
死がいのちに呑まれてしまうような出来事があるのです。
イエス様を信頼するなら、それが起こります。

4)私を信じる、このことを信じる
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じ
る者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。この
ことを信じるか。」

イエス様は、「私を信じる者は」と語られ、「このことを信じますか」と質
問なさいました。イエス様ご自身を救い主として信頼すること。そして、イ
エス様の教えと十字架の出来事を信頼すること。
イエス様こそ、救い主ですと信じること、イエス様の十字架と復活はまさに
私のためであったと信頼すること、それによって復活の主の力といのちが私
たちに届くのです。
まさに、それらのふたつの内容をしっかりうなずきながら、私たちは復活の
主に出会うのです。死の恐れからの解放がもたらされます。十字架と復活に
よる、赦しといのちへの希望が届くからです。
イエス様が裁かれてくださり、イエス様が罪を担ってくださったので、裁き
としての死、罰としての死という発想がイエス様によって全部担われ、処理
され、赦しといのちの希望が見えてくるのです。
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