Raphael
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2006.4.9
ヨハネの黙示録
19:1 その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
19:2 その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」
19:3 また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」
19:4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」
19:5 また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」
****
「ハレルヤ」という言葉は新約聖書ではこの箇所にしか出ていないと言われていますが「神様を賛美します」とか「神様を賛美せよ」という意味です。大バビロンに対する徹底的な裁き、永続的な最終的な裁きに対する神様への賛美が捧げられています。
天の軍勢の賛美と24人の長老と4つの生き物の賛美とが登場している中で、すべての神のしもべたち、すなわち人間たちに対する奨励の言葉が玉座から語られます。
「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」
神様をたたえる、礼拝するということは、決してどうでもよいことではありません。それは人間が神様から託されている大切な役割なのです。神様を信頼している人たち、すべてに対して求められていること、それは神様をたたえることにあります。賛美すること礼拝すること、こそ大切な命令なのです。これは神様への愛の表明であり、感謝の表明であり、献身の表明でもあります。小さな者、大きな者というのは、子
供も大人もという意味にも取れますし、身分の高い人もそうでない人もと取れますが、いずれにしても礼拝においては、社会的な地位や身分、男女の区別、年齢の高低は関係なく、主なる神様を畏れ敬い、賛美を捧げるように勧められているのです。

最終的には、神様の勝利があり、神様が正しく報復し、神様が決着をつけてくだ
さい
ます。それが現状において、どれほど考えにくいことだとしても、どんなに栄華
を誇
り、見た目には正しそうに映っていても、神様は最終的に判定をくだされます。
そし
て最終的には裁きを実行なさいます。私たちは、その日を信じ、神様を礼拝しつ
つ待
てば良いのです。あるいは、礼拝しつつ、正しいと思われる道にしっかりと立ち
自分
の役割果たすことができればよいのです。神様をたたえるという視点を失うと、
いつ
の間にか私たちは自分を裁判官のような立場に持ち上げ、まるで自分が社会にお
ける
正邪の判定官のように振舞い始めてしまうことが多いのです。いつの間にか自分
がイ
エス様を信じるまでは「裁かれる側の存在であった」ことをすっかり忘れてしま
うの
です。礼拝はそのことを思い出させてくれる時間でもあるはずです。救われたこ
とへ
の感謝を思い出す時間でもあるからです。それは、教会堂における礼拝もそうで
しょ
うし、家での礼拝でも同じです。どこにいても、私たちには礼拝をささげるべき
こと
が勧められているのです。
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