Raphael
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今日の聖句
2006.4.7
ヨハネの黙示録
18:9 彼女とみだらなことをし、ぜいたくに暮らした地上の王たちは、彼女が焼かれる煙を見て、そのために泣き悲しみ、
18:10 彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/強大な都バビロン、/お前は、ひとときの間に裁かれた。」
18:11 地上の商人たちは、彼女のために泣き悲しむ。もはやだれも彼らの商品を買う者がないからである。
18:12 その商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻の布、紫の布、絹地、赤い布、あらゆる香ばしい木と象牙細工、そして、高価な木材や、青銅、鉄、大理石などでできたあらゆる器、
18:13 肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、小麦、家畜、羊、馬、馬車、奴隷、人間である。
18:14 お前の望んでやまない果物は、/お前から遠のいて行き、/華美な物、きらびやかな物はみな、/お前のところから消えうせて、/もはや決して見られない。
18:15 このような商品を扱って、彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立って、泣き悲しんで、
18:16 こう言う。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/麻の布、また、紫の布や赤い布をまとい、/金と宝石と真珠の飾りを着けた都。
18:17 あれほどの富が、ひとときの間に、/みな荒れ果ててしまうとは。」また、すべての船長、沿岸を航海するすべての者、船乗りたち、海で働いているすべての者たちは、遠くに立ち、
18:18 彼女が焼かれる煙を見て、「これほど大きい都がほかにあっただろうか」と叫んだ。
18:19 彼らは頭に塵をかぶり、泣き悲しんで、こう叫んだ。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/海に船を持つ者が皆、/この都で、高価な物を取り引きし、/豊かになったのに、/ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。」
18:20 天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。神は、あなたがたのために/この都を裁かれたからである。
***
大バビロンで私服を肥やし、せいたくに傲慢に生活していた「王たち」「商人たち」「船長たち」がこの都の崩壊とさばきを嘆いている様子が書き表されています。その裁きと崩壊が瞬時にもたらされたことを彼らは嘆き悲しんでいます。しかもその裁きは徹底的なものであり、彼らの富みをもってしても回復不可能なほどのものだったのです。
彼らが売買していたもののリストには当時のぜいたく品が並んでいますが、その中に「奴隷、人間」まで商品としてリストに挙げられているのは驚きですね。
旧約聖書の中にはソドムとゴモラという町に対する裁きが書かれていますが、この大バビロンに対するさばきは、もっと規模の大きい、そして内容の具体的なものになっています。ここで言われる大バビロンとは「ローマ帝国」のことだと言われていますが、その国に対する裁きという一例だけのことではなく、それを下敷きにして、神様に対する冒涜、倫理的な乱れ、キリスト者への迫害などに対して、どの国であろうとどの時代であろうと、神様が「黙っていない」ということをはっきり
教えるために書かれたと考えることができます。

どこに住んでいても、神様を忘れ、冒涜し、反抗し、自分の富のことだけ考え、

を支配し、人を売買し、ぜいたくに生きることだけを目的にしている人間や国家

文化に対する警告の文章でもあるのです。そして、この裁きは、天からの硫黄や

という裁きだけでなく、精神的な混乱、倫理的な破綻、極度の人間不信、それに

きな災害などが全部一度に襲い掛かりその町や国を破綻させてしまうという恐ろ

いものとして書かれています。最近、大きな災害があると「壊滅的な被害」とい

表現でニュースが流れることがありますが、そういう被害の何十倍もの規模のも

が徹底的に都市を襲う可能性があるわけです。

災害はどこででも、いつでも起こる可能性はあるわけですが、神様が意図してい

裁きは単なる災害とは違います。
表面的には区別がつきにくいですが、でも、ある人たちにはそれがはっきりわか

はずです。最終回に至るまでは、神様は悔い改めの機会を与え、慎み深く礼拝者

して生きるように警告を何度も発してくださいます。しかし、終わりのときが来

のです。神様は霊的なことだけに興味をもっておられるお方ではなく、私たちの

体的な生活にも介入なさいます。

ちなみに、ここで喜べと勧められている聖なる者たちとは決して倫理的に完成さ

た人という意味ではありません。キリストの恵みを信頼し受け取った人たちです

自分が取るに足りない、様々な面で不足している者でありながら、キリストの十

架によって罪が赦されたと信じている人たちのことなのです。
キリスト教は「人格的に完成したら救われる」とは教えておらず「キリストを救

主として信頼したら救われる」と教えているのです。人格的、精神的な成熟は大

ですが、その成熟が人を救うわけではありません。キリストの十字架と復活こそ

人を救うものなのです。
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