Raphael
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1998年、国立歴博講演会で、あるキリシタン絵画が紹介された。講師の神庭信幸先生の映し出すスライド。ズームアップされた聖母は、手に椿としか言いようのない花を持っていた。

 京都大学の所有のこの絵画の名は「マリア十五玄義図」。五野井隆史著「日本キリスト教史」の口絵を飾る史料性の高い名画である。(因みに五野井先生は高校時代の日本史の恩師、まだ院生でいらしたが、私が最初に出会った「研究者」であった。)

 聖母子のまわりには、ロザリオ十五玄義の各場面、下にはザビエル、ロヨラなど四聖人が描かれている。1622年の列聖以前のザビエルであろうか、光輪がない。

 また掛け軸の表装、そして聖母のモチーフでは本来、白バラであるべきが、椿のごとく日本的に変容していることから、禁教移行期に日本人によって製作されたと考えられている。(国立歴史民俗博物館の報告)

 

 私は、昭和5年のこの絵の発見に至ったいきさつ、そして禁教の中この絵を伝えてきた茨木の「キリシタンの里」を訪ねてみたく、その秋高槻へ赴いた際、急遽タクシーを飛ばしこの里の「キリシタン遺物史料館」に向った。

 神庭先生のお話では山深い里とのこと。予想はしていたものの、車はぐんぐん坂道を登っていき、茨木から約30分、道標に導かれて千提寺口バス停からさらに細い林道を行くと、数々のキリシタン遺物を伝えてきた民家に囲まれて「キリシタン遺物史料館」があった。

 懐かしい村里の風景に違和感のない小さな洋風住宅の造り、絨緞敷きの展示室は南側いっぱいのガラス戸越しに和風の庭と山里の景色が望め、北側の展示棚にここ千提寺と、この上の隣村・下音羽から発見されたキリシタン遺物が展示されていた。

 高槻・茨木の奥座敷ともいうべきこの山里は、キリシタン大名・高山右近が高槻城主だったころより明治維新まで高槻藩の隔領地だったといわれ、潜伏キリシタンが存在した可能性があったものの、禁教時代からの秘匿の守りは堅く、その確認はできなかった。

 その後1919年(大正8年)、キリシタン研究家の藤波大超氏が千提寺の山林(通称クルス山)でキリシタン墓碑を発見、その土地の地主の東家を尋ねたところ、「昔から秘密の物が伝えられている」ことがわかり、「あけずのひつ」の中から後に世界的に有名になった「ザビエル像」や「マリア十五玄義図」(こちらはかなり損傷)がなどの遺物が発見された。

 さらに1930年(昭和5年)、下音羽の原田家からも屋根葺中、すすけた竹筒から完全な保存状態の「マリア十五玄義図」が見つかった。この椿を持つ聖母像である。

 そして千提寺・下音羽のそのほかの家からも次々とキリシタン遺物が見つかったほか、80歳を越す三人の女性が最後の潜伏キリシタンとして、先祖から伝わった祈祷文や宗教儀礼を語ったといわれる。

 史料館のあるここ「千提寺」の大字名の由来は、二支十字(干)を表す「千」と「聖母=大樹」を象徴する「菩提樹」の「提」に、役人の目をのがれるため「寺」をつけたのだろうと推測されている。

 確かに下音羽などの墓碑のギリシャ十字(十)の対し、千提寺の墓碑の二支十字は特徴的である。1998年夏、高槻城址にある「高山右近記念聖堂」から西北西百メートルの所でキリシタン墓地群が発掘され、朽ちずに掘り出された木棺には二支十字が書かれてあり、千提寺とのつながりが気にかかった。

 この絵のレプリカは、いま国立歴史民俗博物館の第二展示室に飾られているが、思わぬところで、このモチーフを目にした。1999年にたずねた長崎の二十六聖人記念館のステンドガラスである。椿らしき花がそのまま表現され、興味深かった。

 外来の宗教が日本人に受け入れられてゆく象徴としての「椿」なのか、禁教の嵐が来り、西洋と途絶を余儀なくされていく過程の「椿」なのか、絵の中の聖母は17世紀の初頭の日本をどう見ていたのだろう
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