Raphael
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 城主を右近に譲り引退したダリヨはもっぱら宣教に専念した。足利義昭は毛利に逃げ、信
長支配が固まり平穏な時代となっていた。天正2年から4年の間、この25年よりも多くの
キリシタンが誕生したという。
天正2年(1574) 日本イエズス会長カブラルが巡回。ダリヨは自宅を解放して連日の
ようにミサと説教が行われた。

 ダリヨは元神社のあった景勝地に天主堂、司祭館、宿舎を建設。洋風を加味した日本庭園
をまわりにつくって、ダリヨ自身も毎日、手入れと掃除を行った。またダリヨはパアデレの
説教をかみ砕いて庶民に教えた。
 毎日早朝に鐘がなり、毎日、朝と夕に教会に集まり、祈りを捧げた。ダリヨとジェスト(
右近)は、雨の日も風の日も真っ先に教会に顔を見せた。

 慈悲の教えを実践し、当時としては先進的制度が設けられた。毎年、4人の組頭を選び、
ダリヨと共に、貧しい者の救済、葬儀の執行、教会の祭儀の準備、伝道活動などにあたった
。また、領内に困っている者がいないかどうか常に見回っていた。これはイタリヤのフィレ
ンツェで始まったミゼリコルジヤという信徒組織を模したものと思われる。またフロイスの
日本史には次ぎのような逸話が見られる。当時、葬儀のとき、棺をかつぎ、墓を掘るのは、
賎民の仕事であったが、ある貧しい者が亡くなったとき、高山親子は自ら棺をかつぎ、これ
を見て感激した武士たちが争って鍬を取り、墓を掘ったという。それ以来、領民の葬儀には
武士が援助する習慣になった。フロイスは「自負心の強い傲慢な日本人武士にしては稀に見
る行為である。」と評している。このようにして、彼らは人間の平等であることを示した。
またキリシタンは一夫一婦制を厳格に守り、女性の人権をも守った。彼らは領主とは思えぬ
謙遜な態度で領民に接した。

右近についてフロイスはまた「日本史」でこう語っている。

「ジェスト右近殿は極めていきいきとし、明晰な知性を持ち、特にまれにみる
天与の才能の青年であった。
彼は修練された説教者で、ミヤコ地方の全キリシタンの柱石である。
彼がデウスについて語るとき、それを聞く家臣達も見知らぬ異教徒たちも
驚嘆せざるを得なかった。」

 天正4年、高槻で最初の復活祭が行われ、オルガンチノも生まれて初めて経験したと言わ
せるほど盛大であったという。この年には、なんと1年で約4000人が受洗した。

 しかし彼らは決して領主の権限で信仰を強制しなかった。仏教徒にも自由を認め、保証し
た。あるときには仏僧に、キリシタンになって収入を失っても、生活を保証しようと言って
10人ほどが改宗したこともあるが、このように熱心に伝道はしても、一部に伝えられるよ
うに寺社焼き討ちのようなことはしなかったであろう。むしろ多くの寺社は自然消滅して、
その跡地に教会を建てたというのが真実らしい。寺社を今までどおり保証するという右近の
文書も見つかっている。(もちろん、右近が領主であるため、本人に強制の意志は無くとも
形だけキリシタンになった者もいることは否めないであろう。)

 信長や当時の武将たちの間でもキリシタンへの信頼は厚かった。あるとき法華宗の者が信
長にパアデレ追放を願い出た。信長は荒木村重に「キリシタンについてどう思うか」と聞い
た。荒木は「教理についてはよく知らぬが、キリシタンの家臣たちは、よく善に従い、徳を
行い、申し分ない。」と言うと、そこに居た武将たちも同意し、信長も「予も同意見だ」と
いって法華宗の訴えを退けたという。
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