ジャンヌ・ダルク
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曖昧さ回避 この項目では15世紀のフランスの国民的英雄について記述しています。その他の用法についてはジャンヌ・ダルク (曖昧さ回避)をご覧ください。
旗印を持つジャンヌ・ダルク 1450年から1500年の間に描かれた細密画 元々は詩集の写本の飾り絵であったと考えられている パリ国立古文書館蔵
旗印を持つジャンヌ・ダルク 1450年から1500年の間に描かれた細密画 元々は詩集の写本の飾り絵であったと考えられている パリ国立古文書館蔵
ジャンヌ・ダルク(仏:Jehanne Darc、Jeanne d'Arc , 英:Joan of Arc, ユリウス暦 1412年1月6日 - 1431年5月30日)は、「オルレアンの乙女」とも呼ばれ、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会の聖女。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。
目次
[非表示]
* 1 時代背景
* 2 神の啓示と使命
* 3 捕縛と裁判
* 4 偽ジャンヌ・ダルクと私生児説
* 5 後世の評価
o 5.1 医学的研究
* 6 ジャンヌ・ダルクが登場する作品
o 6.1 日本以外
+ 6.1.1 戯曲
+ 6.1.2 オペラ・音楽作品
+ 6.1.3 小説
+ 6.1.4 評論・評伝
+ 6.1.5 映画
o 6.2 日本
+ 6.2.1 文学・芸術
+ 6.2.2 漫画
+ 6.2.3 ゲーム
+ 6.2.4 歌
* 7 関連項目
* 8 参考文献
* 9 脚注
* 10 外部リンク
[編集] 時代背景
ジャンヌ・ダルク自筆の署名。彼女は不識字だったという。この署名は「n」が「m」に誤って書かれている[要出典]。1430年3月28日付ランス住民宛書簡 マレーシー家蔵
ジャンヌ・ダルク自筆の署名。彼女は不識字だったという。この署名は「n」が「m」に誤って書かれている[要出典]。1430年3月28日付ランス住民宛書簡 マレーシー家蔵
ジャンヌ・ダルク(Jehanne Darc, Jeanne d'Arc という綴りは後世に変化したもの)は、後の復権裁判でのある証言によると、1412年1月6日にフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ(ドムレミー)村の農家である父ジャック・ダルクと母イザベル・ロメとの間に生まれた。ジャンヌにはジャックマン、ピエール、ジャンという3人の兄とカトリーヌという姉がいた。村の教会はランスの守護聖人である聖レミギウスに献じられていた。聖カトリーヌの彫像もあった。
その頃フランス北部(ノルマンディー)は、ブルゴーニュ派と連合したイングランドに占領されていた。フランスには1422年にシャルル6世が亡くなって以来、国王が不在だった。
シャルル6世は跡継ぎとして王太子シャルル(後のシャルル7世)を残したが、フランスの王位はイングランドのまだ幼いヘンリー6世に相続された。これは、百年戦争、およびアジャンクールの戦いで生じた血で血を洗う攻防戦を終了しようと、1420年にシャルル6世およびイングランドのヘンリー5世によって署名されたトロア条約の結果だった。
条約の文言には「ヘンリーは、シャルル6世の娘キャサリンと結婚し、シャルル6世の死に際して、王位は彼らの子に継承され、2つの王国を統合する」とあり、これは実質的に、王位継承のラインからフランス王太子を外す事を意味し、多くのフランス貴族によって反対された。
とはいえ、ヘンリー6世は幼いため、フランスのランスでフランス王としての正式な戴冠式を行えなかった。実はここに、追い詰められたシャルル7世側の形勢逆転の可能性も存在していたのである。
[編集] 神の啓示と使命
「声」を聞くジャンヌ・ダルク ジュール・バスティアン=ルパージュ画(1879年) ニューヨークメトロポリタン美術館蔵 背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える
「声」を聞くジャンヌ・ダルク ジュール・バスティアン=ルパージュ画(1879年) ニューヨークメトロポリタン美術館蔵 背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える
1429年5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描 実は公的文書の隅に描かれたいたずら書きであったが、ジャンヌの特徴をよく捉えている。フランス国民議会図書館蔵
1429年5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描 実は公的文書の隅に描かれたいたずら書きであったが、ジャンヌの特徴をよく捉えている。フランス国民議会図書館蔵
ジャンヌは1425年初めて「声」を聞いた。後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。ジャンヌは「声」に従い1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
到着直前に伝令使は一足先にジャンヌの手紙を持ってシノンに入った。その知らせを聞いたシャルル7世は、いざジャンヌと会う際にちょっとした小芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌと会見したが、ジャンヌはすぐに本物のシャルル7世を見抜いた。ジャンヌとシャルル7世は幕僚たちから離れ、二人きりで話をすることになった。そしてジャンヌは、シャルル7世に「声」から授かったシャルル7世の正統性を証明する秘密の話をしたと言われている。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。ジャンヌは後の処刑裁判でこの時の秘密の話についての内容を証言することをかたくなに拒み続けたため、現在ではどのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、シャルル7世はこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間に渡る審理の結果、ジャンヌを認めた。
1429年4月、ジャンヌはロワール川沿いの都市オルレアンに向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった「オルレアンの私生児」ジャン(後のデュノア伯)、オルレアンの隊長「ラ・イール」、ジル・ド・レイ(一説にはシャルル・ペローの『青ひげ』のモデルとも言われる)たちとともに、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、不安のあまり泣き出す始末だった。甲冑を身にまとった女騎士とはいえ、戦場で泣きべそをかくあたりは、やはり10代後半の「少女」であった。ジャンヌの話がいまなお感動的なのは、その当時としてはごく普通の農民生活をしていた少女が、使命のために勇気を出して戦場で戦ったところにあるといえる。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘においては進んで危険な突撃を敢行した。むろん、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやがうえにもあがった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上に渡る包囲網から解放された。
その後、ジャンヌはランスにてシャルル7世の戴冠式を挙げることを主張した。ランスはフランク王国のメロヴィング朝の王クローヴィスが洗礼を受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。そのため、シャルル7世の正統性を世に知らしめるためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くにはイングランド軍を打ち破らねばならなかった。そのため反対する者もいたが、最終的にはジャンヌの提案が受け入れられ、シャルル7世はランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、1429年7月17日にシャルル7世はランスの大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王となった。
この戴冠式には、本質的には敵対勢力であるはずの、北部フランスのブルゴーニュ派の人々も招かれていた。シャルル7世の顧問官たちは、この時すでに、新たなる外交政策の布石を打ち始めていたのである。あくまでも戦闘と武力によるフランスの解放を主張するアランソン侯ら、ジャンヌの属するタカ派勢力は徐々に邪魔者になりはじめていたといえる。
[編集] 捕縛と裁判
牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク ポール・ドラローシュ画 ルーアン美術館蔵
牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク ポール・ドラローシュ画 ルーアン美術館蔵
ルーアンのブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」
ルーアンのブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」
その後、ジャンヌは次第に宮廷内で孤立してしまう。首都であるパリを奪還することなくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ、およびアランソン侯などのタカ派に対して、国王側近は現状の成果に甘んじて、この方針に反対したためジャンヌは孤独な戦いを強いられるようになった。
1430年5月23日、ジャンヌはコンピエーニュでフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられる。その後、ブルゴーニュ軍からイングランド軍に身元が引き渡され、同年12月24日にルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。
1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。名義上の裁判長はジャン・ル・メイトスだが、彼は裁判の正当性に疑問を感じ、予審のほとんどを欠席し、正式の裁判でも沈黙を続けた。代理裁判長ジャン・ピエール・コーション司教をはじめ60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわった。
当時は身分と性別で服装が規定されていたので、彼女のように男の服装で戦いに出る女というのは本当に珍しいことだったのだが、それが通ってしまうほどフランス側は戦争で疲弊してしまっていたのだった。
同年5月30日朝、異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告、火刑に処され、その生涯を閉じた(後世の概念魔女とよく混同されるがまだこの時代には魔女という概念は確立しておらず異端者とされた)。ちなみにジャンヌを護衛した騎士ジル・ド・レイは後に残虐行為を行なったとされ、吸血鬼、男の魔女(黒魔術師)とされ火刑となった。
火刑は中世ヨーロッパのキリスト教的世界において、処刑される者にとっても最も苛烈な刑罰だった。その残虐な刑罰方法もさることながら、重要なのは死体が灰になってしまうという点にある。当時の埋葬方法は土葬が基本だった。キリスト教のカトリックであれば誰もが死後には土葬を望んだのである。その理由というのは遺体が燃やされて灰になってしまっては最後の審判の際に復活すべき体がなくなってしまうからという宗教的なものだった。火刑は肉体的・身体的な恐怖感のみならず、精神的・宗教的な絶望感をも与えたのである。近現代に入り、欧米でも国によっては火葬は公衆衛生学的な視点から伝染病対策などとして積極的にすすめられるようになったが、熱心なキリスト教の信者たちは火葬に対して強い抵抗を感じていた。点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「すべてを委ねます」といって無反応になったと記録されている。炎の中、ジャンヌが高温と煙で窒息死し、その服が燃えた時点で一旦火は遠ざけられた。群衆に向けてその裸体、性器を晒し、ジャンヌが聖女でも魔女でもなく、ただの女に過ぎないと示すためであった(魔女は両性具有と思われていた)。ジャンヌは死してなお、性器を晒されるという女としての屈辱も受けたのである。その後約四時間をかけて燃やされたジャンヌの亡骸の灰はセーヌ川に流された。このように灰さえも残さない(決して土に返さない)という遺体の取り扱いにおいても、ジャンヌが受けた取り扱いは当時としては最も苛烈なものだった。
1449年11月10日、シャルル7世がイングランド軍を打ち破りルーアンに入城した。1450年2月15日、シャルル7世の命令でジャンヌの裁判の調査が行われた。調査の結果、ローマ教皇カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、1455年11月7日、ジャンヌの母イザベル・ロメの訴えによりジャンヌの復権裁判が行われた。かつてジャンヌと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれた。1456年7月7日、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて処刑裁判の破棄が宣告された。
[編集] 偽ジャンヌ・ダルクと私生児説
ジャンヌが処刑されてから5年後の1436年5月30日、ジャンヌを名乗る女性がロレーヌ地方の町メッスに現れた。ジャンヌの兄ピエールとジャンはこの女性をジャンヌと認めたため、近隣の領主たちの歓迎を受けることになった。同年秋、彼女は当時ルクセンブルク公領だったアルロンという町でロレーヌ地方の領主ロベール・デ・ザルモアーズと結婚した。そのため、彼女はジャンヌ・デ・ザルモアーズの名で後世に知られることになった。1439年8月、オルレアンにて町を救った功績として金銭を贈られた。1440年、パリの国王裁判所に出頭させられて説諭を受けたが、制裁を受けることもなく姿を消した。1457年、ジャンヌの名を騙ったことについての赦免状を求めるためにアンジューに現れたという記録が残されている。
ジャンヌは実は王家の私生児であったという説もある。この説によると、ジャンヌはシャルル6世の妃であったイザボーと、義弟ルイ・ドルレアンとの間に生まれたとされる。イザボー王妃の息子フィリップは1407年11月10日に死去し、ルイ・ドルレアンは同年11月23日に暗殺されているが、このフィリップこそがジャンヌのことであり、男の子が生まれたが死産した、ということにして密かにジャック・ダルクの元に預けられた、というのである。ジャンヌ私生児説を主張する者たちの中には、この女性こそ王家の私生児であった本物のジャンヌであり、処刑されたのはジャンヌの身代わりであるという、ジャンヌ生存説を唱える者もいる。だが、研究家たちにはこれらの説は否定的に見られている。
なお、シャルル7世の「王太子の兆候(シーニュ)」とは、シャルル7世が王妃イザボーの不義の子であるという噂を否定するものであり、ジャンヌこそがイザボーの不義の子だということを示したものであるという説もあるが、この説も研究家たちには否定的に見られている。
[編集] 後世の評価
ナポレオン・ボナパルトは、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。ただし、これはナポレオン自身の皇帝という身分への自己正当化のためであった。その後フランスのナショナリズムの高まりと共に、ジャンヌについての史料の編纂・研究が行われ、多くの文学・芸術作品のモチーフとなった。最近ではフランス国民の愛国主義・国民統合のシンボルとして祭りあげる動きもある(フランスの右翼政治家ジャン=マリー・ル・ペンなど)。
一方、敗北したイギリス側ではジャンヌに対して長く「魔女」としてのレッテルを貼り続けていた。王家の腐敗が描かれる一方で愛国的姿勢も見受けられるシェイクスピアの史劇『ヘンリー六世・第一部』(Henry VI, Part 1、1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例である。
だが、近代以後には「もしイギリスが百年戦争に勝利してフランスを併合していたら、イギリス=フランスに絶対王政が成立して今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない(シャルル7世との抗争にイングランド勢が勝利した暁には、ヘンリー6世らイングランド王族が、豊かなフランス側を本拠とする為に結果的にはイングランドがフランス側に事実上併合される可能性があった)。結果的にはジャンヌはイギリスをも救った」という見方も現われるようになったという。[要出典]更には、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョーン』で表わされるように、プロテスタントの殉教者として評価する者まで出た。
ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となった。
[編集] 医学的研究
ジャンヌ・ダルクの神がかり的な言動については、発作を伴わない幻覚症状のみの側頭葉癲癇によるものだとする見解がある。癲癇によるエクスタシー体験はドストエフスキーのものが有名で、ジャンヌは過剰に道徳的・自律的だが、時として攻撃的になるという典型的な癲癇気質であったことがこの説を支持する要素となる[1]。
また、癲癇の原因としては牛などから感染した、ないし教会の鐘などが原因となる音楽原性の結核があったとみられ、これについては
* 火刑で心臓・腸が焼け残ったのは結核性心膜炎や腸管結核によるもの
* 無月経で痩せていたのは悪液質のため
などが結核の傍証として挙げられる[1]。
なお、幻覚などからは統合失調症の可能性もある。
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曖昧さ回避 この項目では15世紀のフランスの国民的英雄について記述しています。その他の用法についてはジャンヌ・ダルク (曖昧さ回避)をご覧ください。
旗印を持つジャンヌ・ダルク 1450年から1500年の間に描かれた細密画 元々は詩集の写本の飾り絵であったと考えられている パリ国立古文書館蔵
旗印を持つジャンヌ・ダルク 1450年から1500年の間に描かれた細密画 元々は詩集の写本の飾り絵であったと考えられている パリ国立古文書館蔵
ジャンヌ・ダルク(仏:Jehanne Darc、Jeanne d'Arc , 英:Joan of Arc, ユリウス暦 1412年1月6日 - 1431年5月30日)は、「オルレアンの乙女」とも呼ばれ、フランスの国民的英雄であり、カトリック教会の聖女。百年戦争の際にオルレアン解放に貢献し、シャルル7世をランスで戴冠させ、フランスの勝利に寄与したとされる。コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判で異端者と断罪され、ルーアンで火刑になった。
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* 1 時代背景
* 2 神の啓示と使命
* 3 捕縛と裁判
* 4 偽ジャンヌ・ダルクと私生児説
* 5 後世の評価
o 5.1 医学的研究
* 6 ジャンヌ・ダルクが登場する作品
o 6.1 日本以外
+ 6.1.1 戯曲
+ 6.1.2 オペラ・音楽作品
+ 6.1.3 小説
+ 6.1.4 評論・評伝
+ 6.1.5 映画
o 6.2 日本
+ 6.2.1 文学・芸術
+ 6.2.2 漫画
+ 6.2.3 ゲーム
+ 6.2.4 歌
* 7 関連項目
* 8 参考文献
* 9 脚注
* 10 外部リンク
[編集] 時代背景
ジャンヌ・ダルク自筆の署名。彼女は不識字だったという。この署名は「n」が「m」に誤って書かれている[要出典]。1430年3月28日付ランス住民宛書簡 マレーシー家蔵
ジャンヌ・ダルク自筆の署名。彼女は不識字だったという。この署名は「n」が「m」に誤って書かれている[要出典]。1430年3月28日付ランス住民宛書簡 マレーシー家蔵
ジャンヌ・ダルク(Jehanne Darc, Jeanne d'Arc という綴りは後世に変化したもの)は、後の復権裁判でのある証言によると、1412年1月6日にフランスのロレーヌ地方にあるドンレミ(ドムレミー)村の農家である父ジャック・ダルクと母イザベル・ロメとの間に生まれた。ジャンヌにはジャックマン、ピエール、ジャンという3人の兄とカトリーヌという姉がいた。村の教会はランスの守護聖人である聖レミギウスに献じられていた。聖カトリーヌの彫像もあった。
その頃フランス北部(ノルマンディー)は、ブルゴーニュ派と連合したイングランドに占領されていた。フランスには1422年にシャルル6世が亡くなって以来、国王が不在だった。
シャルル6世は跡継ぎとして王太子シャルル(後のシャルル7世)を残したが、フランスの王位はイングランドのまだ幼いヘンリー6世に相続された。これは、百年戦争、およびアジャンクールの戦いで生じた血で血を洗う攻防戦を終了しようと、1420年にシャルル6世およびイングランドのヘンリー5世によって署名されたトロア条約の結果だった。
条約の文言には「ヘンリーは、シャルル6世の娘キャサリンと結婚し、シャルル6世の死に際して、王位は彼らの子に継承され、2つの王国を統合する」とあり、これは実質的に、王位継承のラインからフランス王太子を外す事を意味し、多くのフランス貴族によって反対された。
とはいえ、ヘンリー6世は幼いため、フランスのランスでフランス王としての正式な戴冠式を行えなかった。実はここに、追い詰められたシャルル7世側の形勢逆転の可能性も存在していたのである。
[編集] 神の啓示と使命
「声」を聞くジャンヌ・ダルク ジュール・バスティアン=ルパージュ画(1879年) ニューヨークメトロポリタン美術館蔵 背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える
「声」を聞くジャンヌ・ダルク ジュール・バスティアン=ルパージュ画(1879年) ニューヨークメトロポリタン美術館蔵 背後の森の中に大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットが見える
1429年5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描 実は公的文書の隅に描かれたいたずら書きであったが、ジャンヌの特徴をよく捉えている。フランス国民議会図書館蔵
1429年5月10日にパリ高等法院書記クレマン・ド・フォーカンベルグが描いた素描 実は公的文書の隅に描かれたいたずら書きであったが、ジャンヌの特徴をよく捉えている。フランス国民議会図書館蔵
ジャンヌは1425年初めて「声」を聞いた。後の処刑裁判での答弁によると、聖女カトリーヌとマルグリット、そして大天使ミカエルの声であったという。「声」はジャンヌにヴォークルールの守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに会い、オルレアンの包囲を解いてフランスを救うよう告げた。ジャンヌは「声」に従い1428年5月にボードリクールの元を訪れたが追い返された。
到着直前に伝令使は一足先にジャンヌの手紙を持ってシノンに入った。その知らせを聞いたシャルル7世は、いざジャンヌと会う際にちょっとした小芝居をしたと言われている。側近たちの中に紛れて王太子らしくない服装でジャンヌと会見したが、ジャンヌはすぐに本物のシャルル7世を見抜いた。ジャンヌとシャルル7世は幕僚たちから離れ、二人きりで話をすることになった。そしてジャンヌは、シャルル7世に「声」から授かったシャルル7世の正統性を証明する秘密の話をしたと言われている。これは王太子の兆候(シーニュ)に関する話であったと伝えられている。ジャンヌは後の処刑裁判でこの時の秘密の話についての内容を証言することをかたくなに拒み続けたため、現在ではどのような内容だったのかは不明である。いずれにせよ、シャルル7世はこの話を聞き、ジャンヌを信じることになった。ジャンヌを疑っていた聖職者たちも、ポワティエでの3週間に渡る審理の結果、ジャンヌを認めた。
1429年4月、ジャンヌはロワール川沿いの都市オルレアンに向けて出発した。当時オルレアンはイングランド軍に包囲されていた。ジャンヌはオルレアンの総司令官であった「オルレアンの私生児」ジャン(後のデュノア伯)、オルレアンの隊長「ラ・イール」、ジル・ド・レイ(一説にはシャルル・ペローの『青ひげ』のモデルとも言われる)たちとともに、イングランド軍と戦った。ジャンヌは勇猛果敢に突撃したが、左肩に矢を受けた。命に別状はない外傷だったが、不安のあまり泣き出す始末だった。甲冑を身にまとった女騎士とはいえ、戦場で泣きべそをかくあたりは、やはり10代後半の「少女」であった。ジャンヌの話がいまなお感動的なのは、その当時としてはごく普通の農民生活をしていた少女が、使命のために勇気を出して戦場で戦ったところにあるといえる。ジャンヌは人を殺したくないという理由から、旗持ちを好んでいたが、仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘においては進んで危険な突撃を敢行した。むろん、ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気はいやがうえにもあがった。翌月、イングランド軍は撤退しオルレアンは7ヶ月以上に渡る包囲網から解放された。
その後、ジャンヌはランスにてシャルル7世の戴冠式を挙げることを主張した。ランスはフランク王国のメロヴィング朝の王クローヴィスが洗礼を受けた町で、歴代のフランス王がこの地で戴冠式を挙げていた。そのため、シャルル7世の正統性を世に知らしめるためには何としてでもランスで戴冠式を挙げる必要があった。だが、ランスまで行くにはイングランド軍を打ち破らねばならなかった。そのため反対する者もいたが、最終的にはジャンヌの提案が受け入れられ、シャルル7世はランスへと向かった。途中にあった都市を次々と傘下に入れ、1429年7月17日にシャルル7世はランスの大聖堂で戴冠式を挙げ、正式なフランス国王となった。
この戴冠式には、本質的には敵対勢力であるはずの、北部フランスのブルゴーニュ派の人々も招かれていた。シャルル7世の顧問官たちは、この時すでに、新たなる外交政策の布石を打ち始めていたのである。あくまでも戦闘と武力によるフランスの解放を主張するアランソン侯ら、ジャンヌの属するタカ派勢力は徐々に邪魔者になりはじめていたといえる。
[編集] 捕縛と裁判
牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク ポール・ドラローシュ画 ルーアン美術館蔵
牢の中でウィンチェスター枢機卿に尋問されるジャンヌ・ダルク ポール・ドラローシュ画 ルーアン美術館蔵
ルーアンのブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」
ルーアンのブーヴルイユ城にある通称「ジャンヌ・ダルクの塔」
その後、ジャンヌは次第に宮廷内で孤立してしまう。首都であるパリを奪還することなくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ、およびアランソン侯などのタカ派に対して、国王側近は現状の成果に甘んじて、この方針に反対したためジャンヌは孤独な戦いを強いられるようになった。
1430年5月23日、ジャンヌはコンピエーニュでフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられる。その後、ブルゴーニュ軍からイングランド軍に身元が引き渡され、同年12月24日にルーアンのブーヴルイユ城に監禁される。
1431年2月21日、ルーアンで異端審問裁判が始まる。名義上の裁判長はジャン・ル・メイトスだが、彼は裁判の正当性に疑問を感じ、予審のほとんどを欠席し、正式の裁判でも沈黙を続けた。代理裁判長ジャン・ピエール・コーション司教をはじめ60名を超える聖職者たちが裁判にたずさわった。
当時は身分と性別で服装が規定されていたので、彼女のように男の服装で戦いに出る女というのは本当に珍しいことだったのだが、それが通ってしまうほどフランス側は戦争で疲弊してしまっていたのだった。
同年5月30日朝、異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告、火刑に処され、その生涯を閉じた(後世の概念魔女とよく混同されるがまだこの時代には魔女という概念は確立しておらず異端者とされた)。ちなみにジャンヌを護衛した騎士ジル・ド・レイは後に残虐行為を行なったとされ、吸血鬼、男の魔女(黒魔術師)とされ火刑となった。
火刑は中世ヨーロッパのキリスト教的世界において、処刑される者にとっても最も苛烈な刑罰だった。その残虐な刑罰方法もさることながら、重要なのは死体が灰になってしまうという点にある。当時の埋葬方法は土葬が基本だった。キリスト教のカトリックであれば誰もが死後には土葬を望んだのである。その理由というのは遺体が燃やされて灰になってしまっては最後の審判の際に復活すべき体がなくなってしまうからという宗教的なものだった。火刑は肉体的・身体的な恐怖感のみならず、精神的・宗教的な絶望感をも与えたのである。近現代に入り、欧米でも国によっては火葬は公衆衛生学的な視点から伝染病対策などとして積極的にすすめられるようになったが、熱心なキリスト教の信者たちは火葬に対して強い抵抗を感じていた。点火されるまでのジャンヌは「神様、神様」と泣き叫んでいたが、火の勢いが強くなると「すべてを委ねます」といって無反応になったと記録されている。炎の中、ジャンヌが高温と煙で窒息死し、その服が燃えた時点で一旦火は遠ざけられた。群衆に向けてその裸体、性器を晒し、ジャンヌが聖女でも魔女でもなく、ただの女に過ぎないと示すためであった(魔女は両性具有と思われていた)。ジャンヌは死してなお、性器を晒されるという女としての屈辱も受けたのである。その後約四時間をかけて燃やされたジャンヌの亡骸の灰はセーヌ川に流された。このように灰さえも残さない(決して土に返さない)という遺体の取り扱いにおいても、ジャンヌが受けた取り扱いは当時としては最も苛烈なものだった。
1449年11月10日、シャルル7世がイングランド軍を打ち破りルーアンに入城した。1450年2月15日、シャルル7世の命令でジャンヌの裁判の調査が行われた。調査の結果、ローマ教皇カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、1455年11月7日、ジャンヌの母イザベル・ロメの訴えによりジャンヌの復権裁判が行われた。かつてジャンヌと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれた。1456年7月7日、ジャンヌが火刑にされた地であるルーアンにて処刑裁判の破棄が宣告された。
[編集] 偽ジャンヌ・ダルクと私生児説
ジャンヌが処刑されてから5年後の1436年5月30日、ジャンヌを名乗る女性がロレーヌ地方の町メッスに現れた。ジャンヌの兄ピエールとジャンはこの女性をジャンヌと認めたため、近隣の領主たちの歓迎を受けることになった。同年秋、彼女は当時ルクセンブルク公領だったアルロンという町でロレーヌ地方の領主ロベール・デ・ザルモアーズと結婚した。そのため、彼女はジャンヌ・デ・ザルモアーズの名で後世に知られることになった。1439年8月、オルレアンにて町を救った功績として金銭を贈られた。1440年、パリの国王裁判所に出頭させられて説諭を受けたが、制裁を受けることもなく姿を消した。1457年、ジャンヌの名を騙ったことについての赦免状を求めるためにアンジューに現れたという記録が残されている。
ジャンヌは実は王家の私生児であったという説もある。この説によると、ジャンヌはシャルル6世の妃であったイザボーと、義弟ルイ・ドルレアンとの間に生まれたとされる。イザボー王妃の息子フィリップは1407年11月10日に死去し、ルイ・ドルレアンは同年11月23日に暗殺されているが、このフィリップこそがジャンヌのことであり、男の子が生まれたが死産した、ということにして密かにジャック・ダルクの元に預けられた、というのである。ジャンヌ私生児説を主張する者たちの中には、この女性こそ王家の私生児であった本物のジャンヌであり、処刑されたのはジャンヌの身代わりであるという、ジャンヌ生存説を唱える者もいる。だが、研究家たちにはこれらの説は否定的に見られている。
なお、シャルル7世の「王太子の兆候(シーニュ)」とは、シャルル7世が王妃イザボーの不義の子であるという噂を否定するものであり、ジャンヌこそがイザボーの不義の子だということを示したものであるという説もあるが、この説も研究家たちには否定的に見られている。
[編集] 後世の評価
ナポレオン・ボナパルトは、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。ただし、これはナポレオン自身の皇帝という身分への自己正当化のためであった。その後フランスのナショナリズムの高まりと共に、ジャンヌについての史料の編纂・研究が行われ、多くの文学・芸術作品のモチーフとなった。最近ではフランス国民の愛国主義・国民統合のシンボルとして祭りあげる動きもある(フランスの右翼政治家ジャン=マリー・ル・ペンなど)。
一方、敗北したイギリス側ではジャンヌに対して長く「魔女」としてのレッテルを貼り続けていた。王家の腐敗が描かれる一方で愛国的姿勢も見受けられるシェイクスピアの史劇『ヘンリー六世・第一部』(Henry VI, Part 1、1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例である。
だが、近代以後には「もしイギリスが百年戦争に勝利してフランスを併合していたら、イギリス=フランスに絶対王政が成立して今日の自由主義はイギリスに存在しなかったかも知れない(シャルル7世との抗争にイングランド勢が勝利した暁には、ヘンリー6世らイングランド王族が、豊かなフランス側を本拠とする為に結果的にはイングランドがフランス側に事実上併合される可能性があった)。結果的にはジャンヌはイギリスをも救った」という見方も現われるようになったという。[要出典]更には、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『聖女ジョーン』で表わされるように、プロテスタントの殉教者として評価する者まで出た。
ジャンヌ・ダルクは1909年4月18日にローマ教皇ピウス10世によって列福された。次いで1920年5月16日にベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となった。
[編集] 医学的研究
ジャンヌ・ダルクの神がかり的な言動については、発作を伴わない幻覚症状のみの側頭葉癲癇によるものだとする見解がある。癲癇によるエクスタシー体験はドストエフスキーのものが有名で、ジャンヌは過剰に道徳的・自律的だが、時として攻撃的になるという典型的な癲癇気質であったことがこの説を支持する要素となる[1]。
また、癲癇の原因としては牛などから感染した、ないし教会の鐘などが原因となる音楽原性の結核があったとみられ、これについては
* 火刑で心臓・腸が焼け残ったのは結核性心膜炎や腸管結核によるもの
* 無月経で痩せていたのは悪液質のため
などが結核の傍証として挙げられる[1]。
なお、幻覚などからは統合失調症の可能性もある。
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