Raphael
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
北國新聞朝刊
~ 「2人の等伯」 ~
「絵師」と「武将」接点はあったのか 国際都市「堺」に育まれた群像


堺市のビルの谷間に残る千利休の屋敷跡。利休は高山右近とも、長谷川等伯とも、前田利家とも交流があった=堺市宿院町西

 先の大河ドラマ「利家とまつ」に高山右近が登場した。心優しき少年利長が、初陣を前に、戦いで人を殺すことをいやがり南蛮寺に通う。余りのひ弱さを父利家が責めると、キリシタン右近に救いを求めて、すがりつくのである。
 テレビ画面に右近の少し戸惑った表情が映ったように見えた。右近は数々の戦で、何人もの敵の命を奪った勇猛果敢で知られた武将である。その武将に「殺生をしたくない」とすがるのは大いなる矛盾のはずだった。
 だが、この場面について、中世史研究者の木越祐馨さん(石川県立図書館史料編さん室課主査)は「あそこが良かった」と振り返る。人を殺したくないから宗教に救いを求める武士がいれば、逆に、戦国の世で人を殺し続けるからこそ宗教の世界に入り、祈りを深めていく武人もいる。前者は利長であり、後者は右近である。双方とも血の通った人間であり武士だと、木越さんはいうのである。
 人間・右近は「3つの世界をもっていた」と木越さんは見ている。「武将」「キリシタン」「茶人」の3つである。武将としての名を右近という。キリシタン名は重友(洗礼名ジュストを漢字で表す)であり、晩年の茶人としての名を南坊と言った。この3つが右近の内面で三すくみのようになっている。
 右近が持っていた名前は先の3つだけでなかった。幕末に生まれ明治中期まで活躍した金沢の郷土史家、森田柿園(しえん)(1823―1908)が残した「金沢古蹟志(こせきし)」には高山右近のことを以下のように記している。
 「実名は長房、右近と称し、後、南坊と呼べり」「封を除かれ流浪せしを、前田利家卿これを招く。高山、剃髪(ていはつ)して南坊と称す」「慶長11年、奉書に南坊等伯(とうはく)と連署す」。高山右近は加賀に来た前後に「南坊」と名乗り、さらに「等伯」の号も持つようになったと書いているのである。
 南坊は「みなみのぼう」と読む。秀吉に追放された後、日本風に出家の決意をして「南蛮の坊主」をもじって南坊とした(右近研究の先駆者・海老沢有道氏の説)という。また、茶人としての号だったとの見方も強いが、興味深いのは「等伯」の名である。
 「等伯」といえば、ほぼ同時代に、画聖と呼ばれた七尾出身の絵師・長谷川等伯(1539―1610)がいる。等伯には、ナゾの一時期がある。能登から上洛した1571年以降の約10年、おそらく堺に居住していたと推測されるのに、今もって証拠がないのだ。堺在住を推測する理由の1つは、堺の茶人千利休との付き合いが深いこと、2つには等伯の再婚した妻が堺の商人の娘だったという事実などである。等伯が画家として名を売るのは、利休の口添えで秀吉の長子鶴松の菩提を弔う襖絵(ふすまえ)の制作だったことも重要なことである。
 一方の、高山右近・等伯も千利休との交際や外国人宣教師らとの交流で堺とは関係が深い。何しろ堺はバテレンの一大拠点である。戦国末期の堺は、右近や等伯のような多彩な人々が行き交った自由・国際都市だった。まるで「時代の坩堝(るつぼ)」のようなこの街から、多才さと複雑な精神世界を併せ持つ新しいタイプの日本人が生み出されていったとみて間違いなかろう。
 南坊等伯と長谷川等伯に共通するのは名前だけではない。堺という中世日本に登場した奇跡的な都市の空気を共に吸っていたことが第一に指摘されるのである。さらに想像たくましく堺に思いをめぐらせると、2人の関係どころか、秀吉―利休―前田利家―高山右近―長谷川等伯ら面々の、ドラマチックなつながりが見えてくるのである。

堺は、堀に囲まれ自衛力をもった環濠都市だった。今もその堀跡が残っている=堺市南旅籠町東

 「2人の等伯」の接点はあくまで不明である。が、2人が堺に生きたであろう天正期(1570―80年代)の時代相を知る手がかりの1つに、堺市文化財保護係主査の井渓(いだに)明さんが集めた面白いデータがある。
 茶会記である。利休や右近、津田宗及(そうきゅう)の名が確認できる。例えば賤ケ岳(しずがたけ)の戦いが終わり、大坂城築城に忙しい天正11(1583)年12月には、右近が客となり宗及の茶会に出ている。利休の席には天正18(1590)年12月27日と翌19年正月25日に右近の名がある。天正18年といえば右近は利家の客将となって関東の小田原攻めに加わり、十字の旗を掲げて敵を殲滅(せんめつ)して金沢に凱旋(がいせん)、秀吉とも再会した直後である。
 茶会記からうかがえるのは、合戦に明け暮れ、敵を殺(あや)め続けた血なまぐさい「右近」が、戦の合間を縫って「南坊」として堺に赴き茶席にある姿である。人間の「矛盾」を飲み込んで1つになった右近の心の中で、キリスト者としての意識がどれだけ占めていたのだろうか。知るすべはない。

●〔右近の名前〕
 高山右近(1552―1615)は幼名を彦五郎と言った。その後、長房といったり友祥(ともなが)、右近将監(うこんしょうげん)、右近大輔(うこんだゆう)と表記する文書もある。洗礼名「ジュスト」は重出や寿子の字をあてることもある。南坊の名は、外国の文書には1600年代以降に出てくるため加賀に来てからの名前ともされるが、国内の文書にはそれ以前に南坊を名乗ったことが記されている。
スポンサーサイト














管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

sebastian

Author:sebastian
僕は知的障害者です。

僕のリンク集です

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

最近の記事

国産小麦シリーズ「たいやきさん」

RSSフィード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。