Raphael
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2007年9月30説教(PDFファイル)

晴佐久昌英神父説教 

2007年9月30日  年間第26主日(C年)
        

 第一朗読 アモス    6:1a、4-7
 第二朗読 一テモテ   6:11-16
 福音朗読 ルカ    16:19-31
福音朗読 音声

<よかったねえ、ぼくに会えて>

 いよいよ、と言うべきでしょうか。来週から半年間、サバティカルということで日本を離れます。皆さんと半年も会えないなんて、もう、さみしくて、さみしくて(笑)。と言いながら、ちょっと嬉しそうな(笑)。こんな説教も、半年間お休みということになります。
 今日から、わたしの説教集第3集が発売されるということで、このあと出版記念会があります。その説教集の「あとがき」にも書きました。この説教集は、私が作ったんじゃない、高円寺教会との共同作業なんだと。だって、説教は一人でしゃべっているんじゃなく、みなさんが忍耐強く聞いてくれるからこそ語れるということなんであって、それについては本当に感謝しています。思いつきの話を重ねて来ましたけど、ともかくも皆さんとの共同作業で出来た説教集ですから、これは自分たちの作品だっていう思いを大切にして欲しいです。そして、さらに言えば、これは、それらの共同作業を実現させた神の作品なんです。
 昨日たまたま、他人の説教を聞く機会があったんですよ。これが普段は中々ないことで、主日によその教会で説教を聞く機会って、滅多にないんです。昨日はたまたまある教会の土曜夜の主日ミサに参列したので、今日のこの福音の説教を聞いたわけです。どんな話をするんだろうと興味深々でしたけど、これがまた正直言って、長々と、くどくどと話していて、ああ、俺の話もそうなんだろうなあと、わが身を見る思いでヒヤヒヤしました。で、しまいには心の中で「要するに隣人愛を実践しろってことでしょ?」って思ったんですけど、そう思ったとたん、その司祭が、「まあ、くどくどと申し上げましたが、要するに隣人愛を実践しろと(笑)、そういうことです」って言ったんですよ。思わず笑っちゃいました。同業者として「ああ、わかる」っていう共感があって。
 「隣人愛を実践する」って、これすごく大事なことでしょ? だから、ともかくもそれはやっぱり説教者として言わなきゃならない。ただ、説教者はそれを誰の言葉で語っているのか、これが大事なんです。普通にはどう考えたって「こんな俺が、隣人愛を実践しろなんて、人に言えた義理か」って思うわけですよ。皆さんもそうでしょ? とてもじゃないけど、「もっと人を愛しなさい」なんて言えませんよね。愛してくれない夫には言うかも知れないけど(笑)。
 しかし、実は隣人を愛せって言ってるのは神なんですね。説教とか、福音宣言とかするときの根本はどこにあるかっていうと、それはあなたの言葉じゃないってことなんですよ。神のことばなんです。キリストが宣言している。聖霊が語っている。そうじゃなきゃ言えっこないですし、逆に言えば、そうだからこそ、どんな現場でもちゃんと生きた言葉として届く。それを一司祭の言葉としてとか、人間の宣言として語っちゃうと、我々はハナから腰が引けてますから、本当にこれを伝えたいという言葉にならず、弁解がましく回りくどい話になる。聞いていても、「もういい、わかったよ、要するに愛せばいいんだろ」って感じになっちゃう。わたしたちキリスト者は、弁解や解釈でなく、わが口を開けばキリストが宣言するっていう、みことばへの奉仕を生きるものであるはず。

 神が語る。これ、預言職って言うんですね。旧約の預言者たちのように、神のことばを語る奉仕です。その意味では、イエス・キリストは最高の預言者です。このキリストとひとつになって、自分の言葉ではなく、神のことばを宣言する。これこそは、キリスト教の本質です。神の思い、そのあふれんばかりの愛を受け止めて、それに満たされて、みことばをみんなと分かち合う。この預言職をやっていきましょう。それが皆さんへ、どうしても言っておきたいことです。高円寺教会はこの預言職を果たすべきですし、そのように招かれた教会だから。
 アモスの預言をさっき読みました。厳しいこと言ってましたよね。あなたたちは贅沢三昧している。苦しむ者の心をちゃんと受け止めていない。わたし神は、苦しんでる人に憐れみを注ぎ、必死に愛を伝えようとしているのに、あなたたちはわたしの思いを全く無視している、と。やっぱり、神の思いを誰かが伝える必要があるわけですよ。神が天から叫ぶわけにいかないから。確かに自分なんかがそんなこと言えた義理じゃないとも思っちゃいますけど、わたしたちは預言者にならなくてはなりません。そうして語ることで、自分自身も変えられて、救われていくんです。みことばによって養われるっていうのは、「聞いて養われる」というのもさることながら、「語って養われる」ことだと思う。
 パウロも言ってましたでしょう? 第二朗読で。「命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです」と。「万物に命をお与えになる神のみ前で、立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエス」という言い方もしていました。この、「皆の前で宣言する」ということが、命を得るために不可欠なのです。
 イエスも、今日のたとえ話で、神の思いをそのまま伝えようとしているわけです。精一杯の預言職を果たしている。神はこういう方だよ、こういう思いだよと。生きている間に苦しい思いをして苦しい思いをして、さらに苦しい思いをしている、そんな人に神がどれだけ憐れみをかけ、癒し、報いて、永遠のいのちに引き上げ、みもとに迎え入れてくださっているか。そんな神の憐れみに気づかずにいることが、どれほど空虚で、自分自身をも滅ぼしているか。神の思いから離れていること自体が、もう地獄なんですよ。神のみことばを語りましょう。我々には預言者が必要ですし、我々も預言者にならなければなりません。つまり、我々にはキリストが必要だし、我々もキリストにならなくてはなりません。

 昨日一人の神学生と話してたんですけど、自分は平和運動とか人権問題とかが苦手でつい敬遠しちゃう、そういう問題に関わる意欲が薄いとか言ってました。それで、それはぼくも同じだと答えました。でも、じゃあなぜ敬遠してしまうのか、その苦手意識を深く探ると、結局「こんな自分なんかが関わってもどうせ何も変わらない」っていう恐れがあるんですよね。もちろんぼくにだってささやかな愛はありますよ。戦争は無い方がいいに決まってるし、貧しい者が抑圧される社会は変わった方がいい。でもちゃんとそれに関わろうとしないのは、自分なんかはどうせ役に立たない、人を救えるはずもないと思い込んでるからなんです。救えるはずもないのに関わっても、結局は無力感と無能感に傷つくだけじゃないですか。だから敬遠する。それで彼には、「あなたの恐れがあなたのためらいだ。その恐れを越えて関わっていけば、世界が救われる」と励ましました。
 でもこれ、私のこと、皆さんのことなんですよ。もしも今、目の前ですごく苦しんでる人がいて、その人にきちんと関わったらその人がその苦しみから解放されるって分かってたら、関わるでしょう? ためらわないと思うんですよ。たとえば今、イラクで何万人も死んでますけれども、もしも自分がワシントンに電話してブッシュ大統領にひと言「戦争やめろ」と言えば100%やめるとしたら、絶対電話しますよね。「ぼくはそういうの苦手だから」とか言わないでしょう。
 それほどの力、実りが、福音宣言に溢れています。勇気が必要です。どんな薬よりも武器よりも、福音宣言は完全な力を持っていて、それを皆さんはもう聞いているし、それを語ることができる。ことばとしるしで表して、人を救うことができる。できるのにやらない、それが地獄だと、イエスは言う。
 宣言してください。皆さん誰でもできます。皆さんに、わたしはもう4年半もそのことを訴えてきました。毎週出ている説教のプリントも、今日のこの説教で No.210になるんですけど、No.1からずっと聞いている人は、もう200回以上、この「福音宣言しましょう」っていう話を聞き続けてきたわけで、そろそろ、実際に宣言すべきときが来ました。やってください。必ず効果があります。

 2週間前の説教で、「わたしは信仰とか宗教とか、今は特に必要ありません」と言ったご病気の方の話しをしましたよね。そのときわたしは、「あなたの気持ちは理解できるが、どうしても福音を語りたい」と、宣言した。「神は、あなたを愛している。あなたを永遠のいのちに導いている。病気で不安なその思いを、誰よりもよく知っているからこそ、今、わたしの口をとおしてあなたに愛を語り、希望を与えたい。ぼくの口を用いて宣言しようとする神のみことばを、黙ってはいられません」と申し上げた。実はその方は、その後洗礼を希望し、3日前に病院で洗礼式をしてまいりました。ほんの2週間前は「わたしには信仰は必要ありません」って言ってた方が、一つの福音宣言で、その信仰に入る。これが、神のわざです。病院の面会室での、美しい洗礼式。教会副委員長さんに代父になってもらって、信者の家族も本当によろこんでくれて、わたしは彼に、「この洗礼のひと時があなたの人生の中でも最もすばらしい瞬間です」と宣言いたしました。

 わたしは半年ほどこの現場を離れますけれども、かえってその方がいいって面もあるはず。これはひとつの機会です。「福音だの宣言だのは神父に任せておけば」ではなく、一人ひとりが預言者として福音を宣言し、来年の復活祭に向けて大勢の人を招いてください。それは使命でもあり、自分を救う道でもある。
 福音宣言のコツは、「こんなわたしじゃ無理」と決して思わないこと。恐れた瞬間、すべてが消えます。むしろ、「ああ、この人を救うために、神はわたしに会わせたんだ」って思うことです。わたしはいつも「良かったねえ、ぼくに会えて」と思う。傲慢に思われるかもしれないけど、そう信じて口を開きます。みなさんも半年、それをやっていただきたい。あとは神が働きます、間違いなく。
 松本神父から聞いたんですけど、「晴佐久が半年いなくて、来年の高円寺の受洗者数はどうなるか」と、それが司祭たちの間の話題だとか(笑)。実は、それはわたしが一番興味あるんですけどね。でも、高円寺教会は今、福音宣言の教会として輝いているわけですから、一司祭がいようといまいと、その光を一層輝かせて欲しい。来年の復活祭にはよい報告をお待ちしています。「これなら大丈夫、もうあと一年サバティカルを」(笑)、と思えるようなご報告を。それは、神が本当にこの世界を愛していることの、何よりも美しいしるしなのです。

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