Raphael
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 毎週同じ洗礼面接の話になってしまいますが、なにしろ今、洗礼の面接シーズンで毎日幸いな聖霊の働きを実感しているので、わたしにはそれを皆さんと分かち合う使命があると感じます。一人ひとりのことを詳しくお話しできないのが残念ですけれど、ともかく確かに聖霊が働いて、一人ひとりが救いのよろこびに導かれていることを証言いたします。洗礼志願式まで、あと三週間。洗礼の準備がいよいよ本格的になる素晴らしい季節。
昨日は入門講座の後で、求道者を囲んでささやかな宴を開いたんですけど、大勢の求道者が互いに語り合い、入門係と親しく乾杯している様子を見ていると、神が一人ひとりを集めてひとつの群れにし、祝福してご自分のものとされるという出来事が目の前で実際に起こっていることに感動しますし、ますますこの神のわざを信じようという気持ちになる。
 昨日なんか、そんな宴の最中に洗礼を決心した方がいて、聖霊の働きをすごくリアルに感じました。この方はお医者さんなんですけど、洗礼を受けようかどうか迷っていたのが、昨日のあの本当に幸せな集いの中で、信じる仲間たちと熱く語り合っているうちに決心が沸き起こり、「やっぱり今年、どうしても洗礼授けてください」と言いだした。ついさっきまで「どうしようか」って言ってた人が、「どうしても授けてください」と言いだす。そのとき、確かに聖霊が働いたのです。聖霊の働きによらなければ、そのように自分の生涯をイエス・キリストに明け渡すことなどは不可能だから。それは生涯一度の美しい体験ですし、共に居合わせた人にとってもかけがえのないよろこびの瞬間です。
 入門講座で話したり、入門係としてお世話をしている我々なんかは、実は、もうただただ神のわざを見守るばかりで、何もしていないに等しい。むしろ邪魔してるようなことさえあるにもかかわらず、圧倒的に神が働き、聖霊に導かれて救いが実現していく。かく言うぼくも色々と問題多い人間ではあるけれども、それを使って、ちゃんと神が働く。時にはその弱さや欠点を利用してさえも、神が働く。キリストの教会の働きは、何とダイナミックなのでしょうか。

 欠点と言えば、わたしはすごく忘れっぽい。人の名前が覚えられない。洗礼志願者と面接しても忘れてしまう。言い訳するなら、今は志願者の数があまりにも多いので、全員のフルネームを覚えられるかと言うと、とてもとても。写真付きの志願書を出してもらってるんだから、がんばれば覚えられるはずなんですけどね。でも志願者にしてみれば、神父に名前覚えてもらえないというのは悲しすぎますよね。ある志願者が先週「神父さん、ぼくの名前忘れないでね」って言うので、「はいはい」って答えたんですけど、昨日の宴のとき、「神父さん、ぼく誰ですか?」。(笑)最初の一文字は出てきたんだけど、その次が出てこない。ひどい神父です。もっともその彼も、「ひどいじゃないですか。佐久間神父さん」とか言ってるので、「わたし、晴佐久です」(笑)。ま、どっちもどっち。
 ただですね、開き直るようですけど、ぼくは言いたい。人間に忘れられても、そんなことはたいしたことじゃない。わたしがあなたを選んだのでも、招いたのでもない。神が、わたしを通してあなたを選び、わたしを用いてあなたを招いたのです。神がわたしの口と手を使って、あなたに洗礼の恵みを実現させるのです。たとえ神父が忘れても、神は決して忘れない。たとえ神父が見捨てても裏切っても、イエス・キリストは決して見捨てないし、裏切らない。それだけは、言っておきたい。
 神がある人を通して働く。それは、神にとって、その人でなければならない理由がある、ということです。弱くて限界を抱えたその人を通して働くというところに、神の選びの独自性、素晴らしさが秘められている。洗礼式の日、大勢の人に水をかけながら、ぼくはいつも神の意地のようなものを感じる。「あらゆる出会いを通して、すべてのわが子を必ず救う」というような。一人ひとりを救うために、神は人を出会わせるのです。逆に言えば、神が出会わせたんだから、どんな自分であれお構いなしに、「神は必ずあなたを救う」と宣言できる。なぜぼくか、なんて考える必要がない。神がこの人を救うために出会わせたんだから、ただもうキリストと一つになって福音を宣言すればいい。神が救おうとしてるんだから、救われるに決まってるじゃないですか。皆さんにも出来るはずです。もし自分には救えないなら、神が会わせるわけがないと信じること。

 一昨日ある教会で講話をした時、講話の前に一人の精神科医が挨拶に来て、「去年高円寺教会で洗礼を受けた中の一人は、わたしの患者でした」って言うんですね。「あのころその人はとても苦しんでいて、わたしも医者として関わっていたけれど、高円寺教会に行き出してからどんどん良くなって、洗礼を受けたらすっかり治ってしまった。まことに恐れ入った。前々からそれをお伝えしたかった」と。
 確かに、その人と初めて会ったときは心閉ざしていて、自分自身も世界も受け入れ難い様子でした。だからぼくはいつものように、「よく来たね。もう大丈夫だよ」と話した。「神さまが教会に出会わせてくれたんだから、安心してください。こうしてわたしとあなたが話していること自体が、神の愛の表れだし、神の招きです。教会の恵みを通して神が救ってくださるから、信じて洗礼を受けましょう」と。いつものように普通にそうお話しましたし、その人はそれを受け入れて入門講座に通い出し、みるみる表情が変わり、洗礼を受けた。ぼくはその人が医者にかかっていると知らなかったし、知る必要もない。薬の知識もないし、カウンセリングの方法も知らない。しかし、神の働きについては、絶対の信頼がある。その信頼によって、医者も驚くことが実際に起こるというだけのことです。
 講話のあと、一人の女性が「質問があります」と立ち上がった。「最近心がふさいでよろこびを失い、とても苦しい。以前はよろこびがあったのに。どうしたらいいでしょうか」。そういう、うつの症状を訴える人が増えていますけど、先ほどの精神科医が真剣にこっちを見てるんですね。神父はこういう時どう答えるんだろうかって顔で(笑)。でも、どう答えるも何もない、キリスト者が答えるべきことはただひとつ、「神はあなたを愛しているから必ず救う」という宣言以外にないわけです。いつものように答えました。「あなたは自分でよろこびを作れません。よろこびを与えるのは神です。あなたが以前よろこべていたのも、神がよろこばせたから。あなたにはもう、神の愛のわざが始まっているんです。今、なぜよろこびがないのか、わたしにはわからない。でも、辛いだろうけれど信じてほしい。神がお始めになった、『あなた』という素晴らしいわざは、神ご自身が必ず完成させてくださる。あなたによろこびは戻ってくる。わたしはそれを確信できる。なぜなら、神が今日あなたをここに呼んできて、こうして福音を宣言しているから。わたしは、はっきり言うことができる。あなたは必ずよろこびを取り戻します」。そして、よせばいいのに、口走っちゃった。「それがいつかというならば、そうですねえ、桜の花の咲くころ!」(笑)。
 窓の外に桜の木があったんですよ。ふとそれが目に止まった瞬間、満開の桜のイメージとその人がよろこびを取り戻して顔を輝かせているイメージが重なって、ついつい。で、一応付け加えておきました。「桜が咲いてもよろこびが戻らなければ、来年の咲くころです」(笑)。彼女も笑ってましたし、分かっているはず。救われるのは何月何日かなんていう話ではなく、ひたすらなる信仰、絶対の希望の話だということ。そうそう、「桜の花の咲くころ!」って言ったとき、会場から拍手が沸き起こったんですよ。うれしかったな。本人も顔を輝かせて座りましたよ。昨日そのお友たちが報告してくれました。帰り道、本当にうれしそうだったと。
 何でそんなことを口走れるのか。その自信はどこから来るのか。それは、神がその人を救おうとして、そのように口走るわたしに会わせたのだと信じているからです。だからある意味、ぼくは口走らなきゃならないんですよ。それがわたしですから。神の愛を信じ、キリストの口となって「あなたを救う」と宣言するわたしの前に神がその人を立たせたんだから、絶対大丈夫だと確信しているからです。

 パウロがさっき、熱心に言ってました。「わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。これがパウロの秘密ですよね。働いているのは神の恵みだ。その確信が強ければ強いほど、神の恵みが働くわけです。逆に、わたしじゃ無理だ、わたしには働かないって恐れたときに、神の恵みも働けない。
 今日の福音書ではイエスがペトロの船に乗って群衆に話していますけれども、イエスがペトロの船を指名したとき、ペトロはすごく喜んだと思うんですよ。「このわたしを信頼して用いてくれる」と。群集は感動して聞いているわけでしょ? 涙流して聴いている人もいたんじゃないですか。そんな素晴らしい方に選ばれた誇りというか、名誉というか。しかも、舟を漕いでるんだから、イエスの一番近くでその話を聞いているわけです。おそらくイエスも、群集に話しながらも、すぐ隣のペトロにこそ話していたんじゃないか。そんな気がする。
 ペトロだって生きる道を探していたし、悩んでいたでしょう。恐れを抱えていたかもしれないし、自分を受け入れられないでいたかもしれない。そんなペトロも、「神はあなたたちを愛している。神はあなたたちを選び、救ってくださる」というイエスの宣言をすぐ隣で聞いて、櫂を握りながら思わず涙の一粒をこぼしたんじゃないですか。だからこそ、その後の不思議な大漁のときに、ペトロはイエスを真に聖なる者と認め、ひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言う。しかし、イエスは宣言します。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
 当然、ペトロは全てを捨てて従います。ある意味で、このような召命は福音を宣言するキリストの教会の曙でもあるわけですけれども、ここで何が起こっているかといえば、それは罪深いこの自分に神が目を留め、神が選び、神が用いてこの世界に福音を宣言するという出来事であり、それを実現するのは、もはや働いているのはわたしではない、神の恵みだという全面的な信頼です。
 イエスに選ばれ、イエスの宣言を受ける。それこそが、教会体験です。その体験の中では、自分の選択や迷いなんかは意味を持たない。何かこう、自分が決めることじゃない、このわたしは神によって選ばれてしまったし、もはや福音を宣言することしかできないというような実感は、ペトロの生涯を貫いていたことでしょう。こんなダメなわたしをなぜ選んだのか。それは選んだ方にしかわからない。
 
 昨日の召命塾で、先日神学校に合格した神学生が、色々悩んでいる仲間に一生懸命語っていました。「みんな、ここにこうして集められていることを不思議だと思わないか? ここにぼくらがいるのは、神がそう願ったから。神が願ったんだから、絶対大丈夫なんだよ」と。それ聞いて、塾長的には心の中で、「ふむ、百点」。(笑)これで、召命塾卒業。いってらっしゃい。君は、不思議どころじゃない、想像も出来ないほどの圧倒的な大漁を体験することになります。
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