Raphael
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高山氏は摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人領主であり、父の友照(飛騨守を自称)が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった三好長慶に仕え、長慶の重臣松永久秀にしたがって大和国宇陀郡の沢城(現在の奈良県宇陀市榛原区)を居城とした。

そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄7年(1564年)に12歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会員ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。

こうした高山親子にも否応なく戦国乱世は迫ってくる。三好氏は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の池田氏・伊丹氏などが独自の力を強めつつあった。そうした中、永禄11年(1568年)に織田信長の強力な軍事力の庇護の下足利義昭が将軍となると状況は一変する。義昭は直臣である和田惟政を高槻城に置き、さらに彼に伊丹親興・池田勝正を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなった。

しかし、ただでさえ領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。まず元亀2年(1571年)、和田惟政が池田氏の被官・荒木村重の軍に敗れて討死、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手(全域の領有権確保)」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は本願寺が領有する石山周辺(現在の大阪市域)を除き、荒木村重の領有となった。

こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子惟長が城主となっていたが、まだ幼かった。そこで高山親子は元亀4年(1573年)4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となった。これは荒木村重と示し合わせていたといわれ、荒木の重臣であった中川清秀が高山氏にごく近い親族であったことからも、その可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式をとりいれた。

ただしこうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子は一層キリシタンに傾倒していく。特に父友照は50才を過ぎると高槻城主の地位を息子の右近に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の右近に大きな影響を与えた。
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