Raphael
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 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を”霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
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 この前の水曜日から四旬節が始まりました。そして今日はこの場で、洗礼志願式が行われます。
 四旬節。復活祭までの40日間、心と体の準備をする時期です。「悔い改めて福音を信じなさい」。その主の呼びかけにこたえ、洗礼志願者は秘跡を受ける準備を整え、また教会共同体も、初めの心に戻って、回心を新たにし、新しいメンバーを迎え入れるのにふさわしい共同体になるように、努める時です。40日。出エジプトの間の40年間、そしてイエス様が行った40日間の断食に由来しています。
 洗礼を受けてから、今日まで、教会生活をどのように過ごしてきたでしょう。
 自分はイエス様に守られてきた。そう実感できる人もいるでしょう。しかしこの世のことばかりに気を取られているうちに、あるいはあまりにもいろいろなことがあって、自分で一所懸命やっているうちに、神様のことなど忘れてしまった。そんな人もいるかもしれません。
 人間は確かに、誰でも幸福になりたいと願っています。あえて不幸を望む人などいないでしょう。
 心と体の健康。仕事のこと。経済的なこと。好きになった人を配偶者として得たい。子どもたちに恵まれ、子どもたちも心身ともに健康で、仲よく問題なく。友人関係も近所づきあいもすべてうまくいって。
 しかし現実はそうはいかない。それはむしろ当たり前かもしれません。それは一人ひとりの中に、やはり悪の心があって、どうしようもなく、現実の幸福を自ら破壊していくところがあるのです。
 たとえば家族5人いて、それぞれが皆、自分に仕えることを要求していたらどうでしょう。子どもは母に仕えてもらうのが当然と思い、父は母に仕えてもらうのが当然と思い、母は父に仕えてもらうのが当然と思う。こうしたことがあれば、この家族が、幸せの中ですごすことは、とても難しいことになるでしょう。
 また逆に仕事も家族も何もかもうまくいっている人であれば、そうでない人に対する思いやりがなくなっていくかもしれません。そうして人から知らない間に、恨まれる、ねたまれるということも起こるかもしれません。

 今から洗礼を受けようとする人。自分の夢に向かって、イエス様と共に、自分の人生を切り開いていきましょう。しかし今までがそうであったように、そしてこれからも、けっして自分の思うどおりにいくばかり、とは限りません。
 洗礼を受けたのに、何一ついいことがない。かえってむしろ悪くなった。そう失望してしまうことがあるかもしれません。
 しかし今日の福音を忘れないでください。イエスさまはメシア・救い主だから、本当はできたのです。パンをたらふく生じさせることも。この世の権力と繁栄を手にすることも。実際そのような奇跡をしたこともあります。しかしいつもそればかりしていたのならば、神様はただの人間の便利屋になってしまいます。人間が神様の主人になってしまいます。それはイエスさまが最も嫌ったことです。だからイエスさまでさえ、自分を捨てて、つまり神様から離れた自分の願いを持つのでなく、神様に仕えることを、何より優先させました。そしてついには、他の、罪びとでしかない人間のために、自分を十字架で捧げるということさえも、できるようになったのです。
 「筆子その愛」という映画があります。鹿鳴館の華とも呼ばれた女性の子どもに、次から次へ困難が降りかかる。そういう中で彼女は、普通の恵まれた高慢ならない女性とまったく違った、障がいを持つ子どものために、一生尽くすという決断をキリスト者としてしていきます。そしてこの映画の監督も、重度の障がいを持つ子どもの母です。だからこそ、この映画の監督をして、このような障がいを持つ人たちに光をあてる尊い大切な仕事をすることができたのでした。
 どうしてこのような善良な人にこのような不幸が。そう思うことがあります。しかしやっぱり私はあえて言いたい。そのような善良な人だからこそ、このような人間的に見れば不幸な、しかし他のすべての人のためになる、そのような働きを神様から特別に選ばれて与えられたのだと。

 洗礼を受けるのは、あなたがたくさんの神の中から、イエス・キリストを選んだからではありません。実は、神様がすでに選んでくださっていて、そして洗礼の場まで導こうとしてくださっているのです。だからどんな時も神様にいつも感謝の気持ちを忘れないようにしてください。そしてどんな時にも神様がともにいてくださる。そのことをしっかり心と体に刻みつける。それが洗礼なのだということを忘れないでください。イエスさまのみ心、すべてを人間に与えつくす、捧げつくすという御心を心にとめてください。そしてそのようなイエスさまのみ心を受け入れる、自分もキリストに従うと受け入れる洗礼のときにこそ、本当の再生、新たに生まれる、新しい時が始まっていきます。
 これからの40日間が神様と共に、実りあるときになりますように、自分と神様との間にあって邪魔しているものを取り除いていきましょう。
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