Raphael
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  ヨハネ福音書6章はご聖体についてのヨハネの章と言われています。
イエスは過越の祭りの雰囲気の中でパンの奇跡を行い、湖の上を歩きます。そのことに惹かれて集まってきた人々との対話の中で、イエスは本当の意味で人を生かしていくパンとは何かを説明しながら、ご自分自身がパンであること、ご自分自身を食べられるものとしてわたしたちに差し出しているのだという事を展開していきます。自分を食べることであなたたちに生きてほしいという思いは人間の愛情の溢れとしてそれ以上のものはないでしょう。

 あるとき一人の女子高生がとても沈んだ面持ちで私を訪ねてきました。家族の中でとても苦しい経験をしている友達と語り合ってきた彼女は、「何時間も一緒に話をしたけど、結局何もしてあげられなかった。せめてその子の好きなケーキになって食べられて、その子の中に一緒にいて励ましてあげることができたら」と、そう話してくれました。それを聞いて感動した私はふと「イエス様も多分そう思ってご聖体になったと思うよ」と話したのです。食べられるほどにわたしのことを思い、苦しみや悲しみを一緒に担い、生きてくれようとするイエスの存在はきっとぴんと来たのでしょう。それからしばらく彼女は早朝ミサに来るようになったのです。

 過越祭はユダヤ人にとって民族のアイデンティティを決めるような大きな祭りです。この過越祭を見ていくためには旧約の出エジプト記にさかのぼる必要があります。聖書世界ではエジプトは人生における問題性の象徴です。異国の地で迫害され、強制労働を強いられ、民族としての将来の希望さえ失いかけている中から脱出する―過ぎ越していくということは、死の状態から本当の意味で生きる者になる、闇から光の世界に移っていくということです。この脱出のプロセスに神がどうかかわってくださったのか。旧約において、出エジプト記の中に示されるそれは、神がエジプト人の初子を打つときに、ユダヤ人はいけにえの羊の血を鴨居に塗ることによって死を過ぎ越すことでした。ヨハネは、6章でこの過越のプロセスにイエスがどうかかわってくださるのかをテーマにしています。1章14節に「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」とありますが、ヨハネは、私たちを光へと導き、光へと化していくみことばであるイエスが私たちの中にあって、私たちを兄弟としてご自分に結びつけながら、天の御父を私たちの父として示してくださることを福音全体の中で言おうとしています。この私たちの存在の源であるみことばと一つになること、これがヨハネ福音の書かれた目的と言えるでしょう。

 6章では「食べる」ということがキーワードになっていますが、摂食障害に苦しんだ、あるアメリカの女性は「食べ物はわたしたちにとっての愛です。私たちの知っているものの中で、食べ物は一番愛に近いものなのです」と記しています。このように、愛情における問題性は、歴史の中で人間が体験してきた人間の根源的な問題です。人は本当に自分になっていくプロセスを生きていこうとするときに、自分という存在があるがままに受け止められ、評価され、一緒に生きたいと望んでくれる存在に出会うことを必要とします。出エジプト記の中で神はご自分の名を語られますが、「わたしはある」という神の名は「あなたの存在を望んで、支えるものとして存在している」ということでもあります。そしてこれはイエスとの体験を通してヨハネの見出した「みことば」に通底するものです。あなたに存在を与え続けている私が、あなたの人生の中にかかわって、必ず共にいるということです。パンとなって、わたしたちに食べられ、私たちの中に入ってきて、共にいる者となる。そのようにして時空を越えて私たちの人生の過越しに絶えずかかわりながら共にいて、闇から光へ、死から命へ、わたしたちを本来の者へと生かし続けていくこと、このかかわりを持つことが聖体の秘跡のもつ意味なのです。
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