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聖木曜日
今日は聖木曜日です。聖木曜日の夜には、「主の晩餐の夕べのミサ」が行われ、
このミサが始まると共に、四旬節は終わり、「聖なる過越の3日間」と呼ばれる
、カトリックの一年間の典礼暦の中で、最も大切にされている期間に入ります。
ミサは、どのミサでも、最後の晩餐の記念なのですが、その中でも特に、今日の
「主の晩餐の夕べのミサ」は、最後の晩餐で、イエス・キリストが「聖体の秘跡
」を制定されたことを記念して祝います。
また、主イエスは、聖体の秘跡を制定することで、それに伴って、聖体の秘跡を
執行する司祭職をも同時に制定されたと考えられます。そのため、聖木曜日は、
司祭職制定を記念するお祝い日でもあります。
4つの福音書のうち、マタイ・マルコ・ルカには、最後の晩餐でイエスが聖体の
秘跡を制定したことが記されていますが、ヨハネには、その記事がなく、代わり
に、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されています(13章1〜15節)
。これは、キリストに従う者は、人に仕える者でなければならないと、主イエス
自らが模範を示されたのです。
このことを記念して、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサの中では、「洗足式」が
行われます。司祭が、信徒の中から選ばれた12人の足を洗うのです。
わたしも、昨年の洗足式で、神父さまに足を洗っていただきましたが、イエスさ
まの愛が胸の奥にしみてくるような、深い感動を覚えました。
さて、主の晩餐の夕べのミサが終わると、普段は祭壇上の御聖櫃の中に安置して
ある御聖体を、別の場所に用意した仮の御聖櫃に移動し、祭壇の御聖櫃はからっ
ぽにして、扉も空けたままにします。御聖体ランプも消されます。また、祭壇か
らすべての飾りを取り去って、丸裸にしてしまいます。
これは、翌日の聖金曜日に記念される、キリストの死を象徴しているのです。
ミサの後、信者たちは、仮祭壇に移動された御聖体の前で、しばらく祈りを捧げ
てから、帰ります。
それでは、また♪
今日は聖木曜日です。聖木曜日の夜には、「主の晩餐の夕べのミサ」が行われ、
このミサが始まると共に、四旬節は終わり、「聖なる過越の3日間」と呼ばれる
、カトリックの一年間の典礼暦の中で、最も大切にされている期間に入ります。
ミサは、どのミサでも、最後の晩餐の記念なのですが、その中でも特に、今日の
「主の晩餐の夕べのミサ」は、最後の晩餐で、イエス・キリストが「聖体の秘跡
」を制定されたことを記念して祝います。
また、主イエスは、聖体の秘跡を制定することで、それに伴って、聖体の秘跡を
執行する司祭職をも同時に制定されたと考えられます。そのため、聖木曜日は、
司祭職制定を記念するお祝い日でもあります。
4つの福音書のうち、マタイ・マルコ・ルカには、最後の晩餐でイエスが聖体の
秘跡を制定したことが記されていますが、ヨハネには、その記事がなく、代わり
に、主イエスが弟子たちの足を洗われたことが記されています(13章1〜15節)
。これは、キリストに従う者は、人に仕える者でなければならないと、主イエス
自らが模範を示されたのです。
このことを記念して、聖木曜日の主の晩餐の夕べのミサの中では、「洗足式」が
行われます。司祭が、信徒の中から選ばれた12人の足を洗うのです。
わたしも、昨年の洗足式で、神父さまに足を洗っていただきましたが、イエスさ
まの愛が胸の奥にしみてくるような、深い感動を覚えました。
さて、主の晩餐の夕べのミサが終わると、普段は祭壇上の御聖櫃の中に安置して
ある御聖体を、別の場所に用意した仮の御聖櫃に移動し、祭壇の御聖櫃はからっ
ぽにして、扉も空けたままにします。御聖体ランプも消されます。また、祭壇か
らすべての飾りを取り去って、丸裸にしてしまいます。
これは、翌日の聖金曜日に記念される、キリストの死を象徴しているのです。
ミサの後、信者たちは、仮祭壇に移動された御聖体の前で、しばらく祈りを捧げ
てから、帰ります。
それでは、また♪
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□□□□□「黙示録を読む」□□□第2994号 (水曜版)
2008/3/19発行
=======================================================================
■■■
黙示5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさ
い。ユダ族から
出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を
解くことができます。」” ■■■
=========================================================================
□□□今週のもくじ□□□
◆「ユダ族の獅子、日本」◆その236
=========================================================================
みなさん、こんにちは。エレミヤです。
水曜版では、「ユダ族の獅子、日本」を連載することにします。
黙示録は、終末の日に巻き物の7つの封印を開くために、「ユダ族の獅子、
ダビデの根」が勝利を得ることを述べています。
もし中東にいるあのセム族にしては、色の白い人々が、聖書のいう
「偽ユダヤ人」だとしたら、真のユダヤ人はどこにいるのか?
驚くなかれ、聖書が語るユダ部族のあらゆる特徴は、この「日の上がる国」日
本に溢れており、この国こそ、ユダ族の真の末裔である可能性のもっとも高い
国です。このことを見ていきましょう。
========================================================================
◆その236
神酒と初穂
わが国における酒の起源は大層古く、 すくなひこなの命が初めてこれ
を醸造したと伝わっている。
神功皇后の御歌に、「この酒は吾が酒ならず酒の神、常世にいます、いわたた
す少名御神の神寿 ぎおぎ狂おし、豊ほぎ、ほぎも通し、祭っ来たり
し御酒ぞ」とあリ、これを神酒として神前には
欠くことの出来ない供物としたのである。
古代ユダヤ人も神前に神酒を供、与えることを経典に記録されている。出エジ
プト記二十九章四十節に酒を神前に供えることを記してある。「一小羊に麦粉
十分の一につきたる油一ヒンの四分の
一をまぜたるを添え、またはん祭として酒一ヒンの四分の一を添うべし」。
===========================================================================
(エレミヤのコメント)
「これを神酒として神前には
欠くことの出来ない供物としたのである。」とのことです。
日本では、古来、酒を神の前に捧げる、尊いものとする風習があります。
こんにゃくや、ごぼうを尊いものとしてささげる習慣は特にないでしょうが、
酒に関してはあります。
そして、それは、同じく聖書の中でも記されている習
慣であり、聖書の民も神の前に酒をささげていたのです。
これは、同じくキリスト教会でも保たれている習慣であり、聖餐式では、
パンとともにぶどう「酒」がささげられます。
酒を神の前にささげる、この小さな点でも不思議に日本には聖書の
習慣が残されています。
これは、日本こそ、聖書の民の残る本物ユダヤ人の地であることを語る証拠の
一つです。
日本は長い間、偽ユダヤの偽りの下で、翻弄され、洗脳されてきましたが、も
うそろそろ本領を発揮し、その獅子としての働きを開始すべき時が来ています。
かつて、大東亜戦争で、アジア解放の旗手として、勇猛に立ち上がったように、
再度、この時代の旗手として立ち上がる日が近ずいています。
その日は黙示録に預言されており、この国は、蘇る東の12部族の筆頭部族と
して、明確に記されています。
覚えておいてください。その日、日本が先頭に立つのです。
□□□□□「黙示録を読む」□□□第2994号 (水曜版)
2008/3/19発行
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■■■
黙示5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさ
い。ユダ族から
出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を
解くことができます。」” ■■■
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□□□今週のもくじ□□□
◆「ユダ族の獅子、日本」◆その236
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みなさん、こんにちは。エレミヤです。
水曜版では、「ユダ族の獅子、日本」を連載することにします。
黙示録は、終末の日に巻き物の7つの封印を開くために、「ユダ族の獅子、
ダビデの根」が勝利を得ることを述べています。
もし中東にいるあのセム族にしては、色の白い人々が、聖書のいう
「偽ユダヤ人」だとしたら、真のユダヤ人はどこにいるのか?
驚くなかれ、聖書が語るユダ部族のあらゆる特徴は、この「日の上がる国」日
本に溢れており、この国こそ、ユダ族の真の末裔である可能性のもっとも高い
国です。このことを見ていきましょう。
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◆その236
神酒と初穂
わが国における酒の起源は大層古く、 すくなひこなの命が初めてこれ
を醸造したと伝わっている。
神功皇后の御歌に、「この酒は吾が酒ならず酒の神、常世にいます、いわたた
す少名御神の神寿 ぎおぎ狂おし、豊ほぎ、ほぎも通し、祭っ来たり
し御酒ぞ」とあリ、これを神酒として神前には
欠くことの出来ない供物としたのである。
古代ユダヤ人も神前に神酒を供、与えることを経典に記録されている。出エジ
プト記二十九章四十節に酒を神前に供えることを記してある。「一小羊に麦粉
十分の一につきたる油一ヒンの四分の
一をまぜたるを添え、またはん祭として酒一ヒンの四分の一を添うべし」。
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(エレミヤのコメント)
「これを神酒として神前には
欠くことの出来ない供物としたのである。」とのことです。
日本では、古来、酒を神の前に捧げる、尊いものとする風習があります。
こんにゃくや、ごぼうを尊いものとしてささげる習慣は特にないでしょうが、
酒に関してはあります。
そして、それは、同じく聖書の中でも記されている習
慣であり、聖書の民も神の前に酒をささげていたのです。
これは、同じくキリスト教会でも保たれている習慣であり、聖餐式では、
パンとともにぶどう「酒」がささげられます。
酒を神の前にささげる、この小さな点でも不思議に日本には聖書の
習慣が残されています。
これは、日本こそ、聖書の民の残る本物ユダヤ人の地であることを語る証拠の
一つです。
日本は長い間、偽ユダヤの偽りの下で、翻弄され、洗脳されてきましたが、も
うそろそろ本領を発揮し、その獅子としての働きを開始すべき時が来ています。
かつて、大東亜戦争で、アジア解放の旗手として、勇猛に立ち上がったように、
再度、この時代の旗手として立ち上がる日が近ずいています。
その日は黙示録に預言されており、この国は、蘇る東の12部族の筆頭部族と
して、明確に記されています。
覚えておいてください。その日、日本が先頭に立つのです。
今日の聖句
2008.3.19
ペトロの手紙第一
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたの
は、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終
わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
***
神様との関係を考えるとき、神様に喜ばれ、受け入れられるために「金や銀」
が必要だと考えている方々がいらっしゃいます。
相当額献金し、それなりに神様にお支払いをしないと救ってもらえないので
はないか、赦してもらえないのではないかと考えているようです。そういう
考えは空しいものだとペトロは言います。
私たちが神様に受け入れられるために、神様の側ですべてを用意してくださ
いました。私たちの罪が赦されるために、私たちに代価を要求せず、神様ご
自身ですべてを用意してくださいました。御子イエスキリストとその十字架
の苦難こそ、私たちの罪を赦すために用意された最大のプレゼントなのです。
献金すること、奉仕すること、犠牲を払うこと、それらのものはあってもよ
いのですが、私たちが救いを受けるために神様はそういうことを一切求めて
はおられません。救いは恵みによってもたらされるものだからです。どんな
に献金しても、奉仕しても、犠牲を払っても、キリストを歓迎することがな
ければ救いはあなたには届かないのです。
律法主義は空しいものです。頑張りも限界があります。そのままのあなたで、
「イエス様、あなたを歓迎し、礼拝します。私を赦し、新しい心をください」
と祈ることができたら、それだけで神様との新しい関係が始まります。代価
はすでに十字架によって支払われ、私たちの裁きはそこで決済済みだからで
す。
それは恵みとして提供されているのです。
祝福がありますように。 関根一夫
2008.3.19
ペトロの手紙第一
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたの
は、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、
1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終
わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。
***
神様との関係を考えるとき、神様に喜ばれ、受け入れられるために「金や銀」
が必要だと考えている方々がいらっしゃいます。
相当額献金し、それなりに神様にお支払いをしないと救ってもらえないので
はないか、赦してもらえないのではないかと考えているようです。そういう
考えは空しいものだとペトロは言います。
私たちが神様に受け入れられるために、神様の側ですべてを用意してくださ
いました。私たちの罪が赦されるために、私たちに代価を要求せず、神様ご
自身ですべてを用意してくださいました。御子イエスキリストとその十字架
の苦難こそ、私たちの罪を赦すために用意された最大のプレゼントなのです。
献金すること、奉仕すること、犠牲を払うこと、それらのものはあってもよ
いのですが、私たちが救いを受けるために神様はそういうことを一切求めて
はおられません。救いは恵みによってもたらされるものだからです。どんな
に献金しても、奉仕しても、犠牲を払っても、キリストを歓迎することがな
ければ救いはあなたには届かないのです。
律法主義は空しいものです。頑張りも限界があります。そのままのあなたで、
「イエス様、あなたを歓迎し、礼拝します。私を赦し、新しい心をください」
と祈ることができたら、それだけで神様との新しい関係が始まります。代価
はすでに十字架によって支払われ、私たちの裁きはそこで決済済みだからで
す。
それは恵みとして提供されているのです。
祝福がありますように。 関根一夫
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落花生の栄養成分(さや入り)
エネルギー 562.0kcal ナトリウム 2mg
水分 6.0g カリウム 740mg
たんぱく質 25.4g カルシウム 50mg
脂質 47.5g マグネシウム 170mg
炭水化物 18.8g リン 380mg
ビタミンD 0μg 鉄 1.6mg
ビタミンE 10.9mg 亜鉛 2.3mg
ビタミンK 0μg 銅 0.59mg
ビタミンB1 0.85mg マンガン 1.56mg
ビタミンB2 ナイアシン 17.0mg
ビタミンB6 0.46mg パントテン酸 2.56mg
ビタミンB12 0.0μg 葉酸 76μg
※100g当たりの栄養 五訂日本食品標準成分表 (平成12年:科学技術庁資源調査会編)より
ピーナッツの脂がコレステロールを減らす
ピーナッツの脂質は、オレイン酸 リノール酸が多く、
コレステロールを減らす働きがあります。
活性酵素の働きでも酸化されにくく
悪玉コレステロールを減らし血圧を下げる働きがあります。
生活習慣病(ガン・動脈硬化・糖尿病等)を予防
ピーナッツは抗酸化作用を持つビタミンEや、
身体によい不飽和脂肪酸を豊富に含むと共に、
腸内の善玉菌であるビフィズス菌を増やすオリゴ糖や、
整腸作用を持つ食物繊維を豊富に含むなど、
生活習慣病を予防する成分を豊富に含み、
まさに現代人の健康問題を解決する機能性食品といえます。
貧血予防と欠陥年齢の若返りに
ゆで落花生には葉酸が多く含まれ、貧血・記憶力アップに効果があります。
食物繊維も豊富ですので、便秘にも良い食品です。
お年寄り・貧血気味の方・妊娠中の方にお薦めです。
葉酸とは?水溶性のビタミンB群の一種で、血液と関係が深く他のビタミンB群、
特にビタミンB12と一緒に働きます。赤血球の合成やアミノ酸(グリシン、セリン、
メチオニン)の合成・たんぱく質の生成促進作用があります。
記憶力アップ・痴呆症の予防に効果あり
リン脂質に含まれる「レシチン」が脳の神経細胞の働きを高めます。
そもそもレシチンは脳の機能を高めてくれる神経伝達物質、
アセチルアコリンの原料となる物質。
レシチンを摂取することによって、
神経伝達物質アセチルアコリンを作り出し、脳の活動を活発にし、
記憶力の向上・脳の老化防止を防ぎます。
お酒のおつまみに最適・ピーナッツ
肝臓でアルコールの代謝を助けてくれるナイアシンが豊富。
ナイアシンはビタミンB群の一種。
肝臓内で糖分、脂肪、アルコールなどの代謝を助け
肝臓の負担を軽くしてくれる成分です。
ポリフェノールが豊富
ピーナッツの渋皮には、抗酸化パワーを持つレスベラトロール
(ポリフェノールの一種)が豊富に含まれています。
血液をサラサラにして心臓病や生活習慣病の予防に効果的と言われています。
そのまま食べても、又お料理にしても美味しくいただけます。
美容にも
ピーナッツはタンパク質も豊富です。
タンパク質をつくるアミノ酸に豊富に含まれるアルギンは
血行を促し、ビタミンEなどと共に冷え性を予防します。
またビタミンEは、優れた抗酸化作用があり、美肌効果や老化防止に役立ちます。
子供の成長の欠かせない栄養がたっぷり
ピーナッツには、お子様の健やかな健康に必要なミネラルやビタミンが豊富
に含まれています。マグネシウムやカルシウムは丈夫な骨を作るミネラル。
亜鉛は味覚形成に必要不可欠なミネラル。また、いま一番お子様に必要な
ビタミンといわれるビタミンB1は、イライラに代表される心の健康に必要な
ビタミンで、ピーナッツにはビタミンB1も豊富に含まれています。
シックハウス症候群に落花生の殻の効果
食べた後の落花生の殻は、捨てるだけと思っていませんか?実はこの殻に、すごい効果があるのです。シックハウス症候群の主な原因である「ホルムアルデヒド」ピーナッツの殻の細かい穴が、空気汚染物質を吸収し約4時間で空気中の80〜90%のホルムアルデヒドが消えるのです。方法は簡単。細かく手で砕いた殻を薄い紙に包んで置くだけ。細かくするほど効果が上がるので ミキサーなどでも砕けばさらに効果が上がります。
(2003年6月15日 読売新聞付 )
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション, 検索
牛久大仏
牛久大仏
所在地 茨城県牛久市久野町2083
位置 北緯35度58分45.96秒
東経140度13分2.9秒
宗派 浄土真宗東本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 1989年(平成元年)
開基 興如
正式名 牛久阿弥陀大佛
牛久大仏(うしくだいぶつ)は、茨城県牛久市にある大仏である。世界一の地上高の大仏であり、同時に茨城県内で最も高い建造物でもある。
概要
ギネスブックも公認する世界一の高さ120m(本体100m・台座20m)の大仏。正式名称は牛久阿弥陀大佛。真宗大谷派(本山:京都市下京区にある真宗本廟(通称:東本願寺))から分離独立し1988年に結成された、浄土真宗東本願寺派(本山:東京都台東区浅草にある東本願寺)の霊園に面して造られている。その姿は同寺の本尊阿弥陀如来像のスケールモデルといわれている。
東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が手の平に乗り、米国ニュージャージー州にある自由の女神像の約3倍と、他の像と比べても非常に大きい事が分かる。1989年に着工、1993年に完成した。施工は川田工業株式会社。鉄骨の構造物の表面に、台湾で作られた6000分割の青銅の阿弥陀如来像を貼り付けて作られており、地上85mの胸の辺りまではエレベーターで上る事が出来る。
正信念仏偈(しんじんのうた)
ひかりといのち きわみなき
阿弥陀ほとけを 仰がなん
法蔵比丘の いにしえに
世自在王の みもとにて
諸仏浄土の 因たずね 人天のよしあし みそなわし
すぐれし願を 建てたまい まれなる誓い おこします
ながき思惟の 時へてぞ この願選び 取りませり
かさねてさらに 誓うらく わが名よひろく 聞えかし
十二のひかり 放ちては あまたの国を 照らします
生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり
本願成就の そのみ名を 信ずるこころ ひとつにて
ほとけのさとり ひらくこと 願い成りたる しるしなり
教主世尊は 弥陀仏の 誓い説かんと 生れたもう
にごりの世にし まどうもの おしえのまこと 信ずべし
信心ひとたび おこりなば 煩悩を断たで 涅槃あり
水のうしおと なるがごと 凡夫とひじり 一味なり
摂取のひかり あきらけく 無明の闇 晴れ去るも
まどいの雲は 消えやらぞ つねに信心の 天覆う
よし日の雲に 隠るとも 下に闇なき ごとくなり
信心よろこび うやまえば まよいの道は 截ちきられ
ほとけの誓い 信ずれば いとおろかなる ものとても
すぐれし人と ほめたまい 白蓮華とぞ たたえます
南無阿弥陀仏の みおしえは おごりたかぶり よこしまの
はかろう身にて 信ぜんに 難きなかにも なおかたし
七高僧は ねんごろに 釈迦のみこころ あらわして
弥陀の誓いの 正機をば われらにありと あかします
楞伽の山に 釈迦説けり 南天竺に 比丘ありて
よこしまくじき 真実のべ 安楽国に うまれんと
みことのままに あらわれし 竜樹大士は おしえます
陸路のあゆみ 難けれど 船路の旅の 易きかな
弥陀の誓いに 帰しぬれば 不退のくらい 自然なり
ただよくつねに み名となえ ふかきめぐみに こたえかし
天親菩薩論を 説き ほとけのひかり 仰ぎつつ
おしえのまこと あらわして 弥陀の誓いを ひらきます
本願力の めぐみゆえ ただ一心の すくいかな
ほとけのみ名に 帰してこそ 浄土の聖衆の かずに入れ
蓮華の国に うまれては 真如のさとり ひらきてぞ
生死の薗に かえりきて まよえる人を 救うなり
曇鸞大士 徳たかく 梁の天子に あがめらる
三蔵流支に みちびかれ 仙経すてて 弥蛇に帰す
天親の論 釈しては 浄土に生まるる 因も果も
往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり
まどえる身にも 信あらば 生死のままに 涅槃あり
ひかりの国に いたりては あまたの人を 救うべし
道綽禅師 あきらかに 聖道浄土の 門わかち
自力の善を おとしめて 他力の行を すすめつつ
信と不信を ねんごろに 末の世かけて おしえます
一生悪を 造るとも 弘誓に値いて 救わるる
善導大士 ただひとり 釈迦の正意を あかしてぞ
自力の凡夫 あわれみて ひかりとみ名の 因縁説く
誓いの海に 入りぬれば 信をよろこぶ 身となりて
韋提のごとく 救われつ やがてさとりの 花ひらく
源信和尚 弥蛇に帰し おしえかずある そのなかに
真実報土に うまるるは ふかき信にぞ よると説く
罪の人々 み名をよべ われもひかりの うちにあり
まどいの眼には 見えねども ほとけはつねに 照します
源空上人 智恵すぐれ おろかなるもの あわれみて
浄土真宗 おこしては 本願念仏 ひろめます
まよいの家に かえらんは 疑う罪の あればなり
さとりの国に うまるるは ただ信心に きわまりぬ
七高僧は あわれみて われらをおしえ すくいます
世のもろびとよ みなともに このみさとしを 信ずべし
正信念仏偈書き下し
無量寿如来に帰命し不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。
あまねく、無量、無辺光、 無碍、無対、光炎王、
清浄、歓喜、智慧光、 、不断、難思、無称光、
超日月光を放って塵刹を照らす。 一切の群生、光照を蒙る。
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。
如来、世に出興したまうゆえは、 ただ弥陀本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
摂取の心光、常に照護したまう。 すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧、 常に真実の天に覆えり。
たとえば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇きことなきがごとし。
信を獲て見て敬い、大きに慶喜すれば、すなわち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者とのたまえり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもって難し。難の中の難これに過ぎたるはなし。
印度西天の論家、中夏日域の高僧、
大聖興世の正意を顕し、 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく。
南天竺に龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
大乗無上の法を宣説し 歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。
天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲る。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊びて神通を現じ 、生死の園に入りて応化を示すといえり。
本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かいて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支浄、教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩の論を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなわち涅槃なりと証知せしむ。
必ず無量光明土に至れば 、諸有の衆生みなあまねく化すといえり。
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといえり。
善導独り仏の正意を明かにせり。 定散と逆悪とを矜哀して、
光明・名号因縁を顕す。 本願の大智海に開入すれば、
行者、正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、
韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり。
源信広く一代の教を開きて、 ひとえに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。
極重の悪人はただ仏を称すべし。 我またかの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまうといえり。
本師源空は、仏教を明らかにして、善悪の凡夫を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興し、 選択本願を悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とすといえり。
弘経の大士宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。
道俗時衆共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。
ひかりといのち きわみなき
阿弥陀ほとけを 仰がなん
法蔵比丘の いにしえに
世自在王の みもとにて
諸仏浄土の 因たずね 人天のよしあし みそなわし
すぐれし願を 建てたまい まれなる誓い おこします
ながき思惟の 時へてぞ この願選び 取りませり
かさねてさらに 誓うらく わが名よひろく 聞えかし
十二のひかり 放ちては あまたの国を 照らします
生きとしいくる ものすべて このみひかりの うちにあり
本願成就の そのみ名を 信ずるこころ ひとつにて
ほとけのさとり ひらくこと 願い成りたる しるしなり
教主世尊は 弥陀仏の 誓い説かんと 生れたもう
にごりの世にし まどうもの おしえのまこと 信ずべし
信心ひとたび おこりなば 煩悩を断たで 涅槃あり
水のうしおと なるがごと 凡夫とひじり 一味なり
摂取のひかり あきらけく 無明の闇 晴れ去るも
まどいの雲は 消えやらぞ つねに信心の 天覆う
よし日の雲に 隠るとも 下に闇なき ごとくなり
信心よろこび うやまえば まよいの道は 截ちきられ
ほとけの誓い 信ずれば いとおろかなる ものとても
すぐれし人と ほめたまい 白蓮華とぞ たたえます
南無阿弥陀仏の みおしえは おごりたかぶり よこしまの
はかろう身にて 信ぜんに 難きなかにも なおかたし
七高僧は ねんごろに 釈迦のみこころ あらわして
弥陀の誓いの 正機をば われらにありと あかします
楞伽の山に 釈迦説けり 南天竺に 比丘ありて
よこしまくじき 真実のべ 安楽国に うまれんと
みことのままに あらわれし 竜樹大士は おしえます
陸路のあゆみ 難けれど 船路の旅の 易きかな
弥陀の誓いに 帰しぬれば 不退のくらい 自然なり
ただよくつねに み名となえ ふかきめぐみに こたえかし
天親菩薩論を 説き ほとけのひかり 仰ぎつつ
おしえのまこと あらわして 弥陀の誓いを ひらきます
本願力の めぐみゆえ ただ一心の すくいかな
ほとけのみ名に 帰してこそ 浄土の聖衆の かずに入れ
蓮華の国に うまれては 真如のさとり ひらきてぞ
生死の薗に かえりきて まよえる人を 救うなり
曇鸞大士 徳たかく 梁の天子に あがめらる
三蔵流支に みちびかれ 仙経すてて 弥蛇に帰す
天親の論 釈しては 浄土に生まるる 因も果も
往くも還るも 他力ぞと ただ信心を すすめけり
まどえる身にも 信あらば 生死のままに 涅槃あり
ひかりの国に いたりては あまたの人を 救うべし
道綽禅師 あきらかに 聖道浄土の 門わかち
自力の善を おとしめて 他力の行を すすめつつ
信と不信を ねんごろに 末の世かけて おしえます
一生悪を 造るとも 弘誓に値いて 救わるる
善導大士 ただひとり 釈迦の正意を あかしてぞ
自力の凡夫 あわれみて ひかりとみ名の 因縁説く
誓いの海に 入りぬれば 信をよろこぶ 身となりて
韋提のごとく 救われつ やがてさとりの 花ひらく
源信和尚 弥蛇に帰し おしえかずある そのなかに
真実報土に うまるるは ふかき信にぞ よると説く
罪の人々 み名をよべ われもひかりの うちにあり
まどいの眼には 見えねども ほとけはつねに 照します
源空上人 智恵すぐれ おろかなるもの あわれみて
浄土真宗 おこしては 本願念仏 ひろめます
まよいの家に かえらんは 疑う罪の あればなり
さとりの国に うまるるは ただ信心に きわまりぬ
七高僧は あわれみて われらをおしえ すくいます
世のもろびとよ みなともに このみさとしを 信ずべし
正信念仏偈書き下し
無量寿如来に帰命し不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと。
あまねく、無量、無辺光、 無碍、無対、光炎王、
清浄、歓喜、智慧光、 、不断、難思、無称光、
超日月光を放って塵刹を照らす。 一切の群生、光照を蒙る。
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり。
如来、世に出興したまうゆえは、 ただ弥陀本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖逆謗ひとしく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
摂取の心光、常に照護したまう。 すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛・瞋憎の雲霧、 常に真実の天に覆えり。
たとえば日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇きことなきがごとし。
信を獲て見て敬い、大きに慶喜すれば、すなわち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、 如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解の者とのたまえり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀の本願念仏は、邪見驕慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもって難し。難の中の難これに過ぎたるはなし。
印度西天の論家、中夏日域の高僧、
大聖興世の正意を顕し、 如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく。
南天竺に龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん。
大乗無上の法を宣説し 歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといえり。
天親菩薩、論を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅に依って真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向に由って、群生を度せんがために一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、必ず大会衆の数に入ることを獲る。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなわち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊びて神通を現じ 、生死の園に入りて応化を示すといえり。
本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かいて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支浄、教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき。
天親菩薩の論を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力に由る。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなわち涅槃なりと証知せしむ。
必ず無量光明土に至れば 、諸有の衆生みなあまねく化すといえり。
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといえり。
善導独り仏の正意を明かにせり。 定散と逆悪とを矜哀して、
光明・名号因縁を顕す。 本願の大智海に開入すれば、
行者、正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、
韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり。
源信広く一代の教を開きて、 ひとえに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。
極重の悪人はただ仏を称すべし。 我またかの摂取の中にあれども、
煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲、倦きことなくして常に我を照らしたまうといえり。
本師源空は、仏教を明らかにして、善悪の凡夫を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興し、 選択本願を悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。
速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とすといえり。
弘経の大士宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまう。
道俗時衆共に同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。
概論
梵名の「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」、「アミターバ」は「無限の光をもつもの」の意味で、彼が時間と空間の制約を受けない超人である事を示す。これを意訳して無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土という仏国土を持つ。
造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、定印・説法印・施無畏印・与願印を組み合わせた九品来迎印(詳しくは印相を参照のこと)を結ぶ姿で表される事が多い。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を持つ。密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。
無量寿経によると、一切の衆生救済の為に自ら仏の位を降りて菩薩となり、世自在王仏の元で法蔵と名乗り修行をした。非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし(五劫思惟(ごこうしゆい))、浄土への往生の手立てを見出したことにより仏となった報身仏。衆生救済に関して48の願い(四十八願)を立て、特に浄土教において第十八願を「本願」と呼んで重要視する。また、現在も説法をしていると説かれている。阿弥陀経では、大宇宙のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されている。曰く、「阿弥陀仏のお力はずば抜けて素晴らしく、我々罪悪の重い衆生の救済に対して、他の諸仏が背相を見せたにも関わらず、阿弥陀仏お一人が本願を立てられて一切衆生の救済をお約束された。一切の諸仏も最後には、阿弥陀仏に依らなければ、仏の悟りを開く事は出来なかった」と。
これを語源とする他力本願と云う言葉は、一般には「ムシのいい、他人への依存」「無責任」という意味でも広く用いられる。しかしここで言う他力とは本来阿弥陀如来の力を指し、彼の力以外の(釈迦の力を含めた)すべての力を指して自力と言う。
特に浄土真宗においては、煩悩具足の凡夫は、阿弥陀如来の本願、すなわち他力本願によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、仏である釈迦の力すら「自力」として否定される。
チベット仏教における副法王パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされる。
大乗仏教で登場した仏尊であり、その起源はゾロアスター教などのイラン系の信仰に由来するという説もある。それによると、光明の最高神アフラ・マズダーが無量光如来、無限時間の神ズルワーンが無量寿如来の原型とされる。また、西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるイラン地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方が背景になっているとする説もある。
[編集] 日本語への影響
鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。
十八番(おはこ)
前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。
あみだくじ
現代のものは平行線だがかつては放射線状であり、阿弥陀如来像の光背に似ていることから。
他力本願
前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意図とは違う転用である。
[編集] 真言
オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン
梵名の「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」、「アミターバ」は「無限の光をもつもの」の意味で、彼が時間と空間の制約を受けない超人である事を示す。これを意訳して無量寿仏/無量光仏とも呼ばれ、無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。西方にある極楽浄土という仏国土を持つ。
造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、定印・説法印・施無畏印・与願印を組み合わせた九品来迎印(詳しくは印相を参照のこと)を結ぶ姿で表される事が多い。阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を持つ。密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。
無量寿経によると、一切の衆生救済の為に自ら仏の位を降りて菩薩となり、世自在王仏の元で法蔵と名乗り修行をした。非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし(五劫思惟(ごこうしゆい))、浄土への往生の手立てを見出したことにより仏となった報身仏。衆生救済に関して48の願い(四十八願)を立て、特に浄土教において第十八願を「本願」と呼んで重要視する。また、現在も説法をしていると説かれている。阿弥陀経では、大宇宙のガンジス河の砂の数ほどの諸仏から賞賛されている。曰く、「阿弥陀仏のお力はずば抜けて素晴らしく、我々罪悪の重い衆生の救済に対して、他の諸仏が背相を見せたにも関わらず、阿弥陀仏お一人が本願を立てられて一切衆生の救済をお約束された。一切の諸仏も最後には、阿弥陀仏に依らなければ、仏の悟りを開く事は出来なかった」と。
これを語源とする他力本願と云う言葉は、一般には「ムシのいい、他人への依存」「無責任」という意味でも広く用いられる。しかしここで言う他力とは本来阿弥陀如来の力を指し、彼の力以外の(釈迦の力を含めた)すべての力を指して自力と言う。
特に浄土真宗においては、煩悩具足の凡夫は、阿弥陀如来の本願、すなわち他力本願によって「のみ」往生を遂げることができるとし(絶対他力)、仏である釈迦の力すら「自力」として否定される。
チベット仏教における副法王パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされる。
大乗仏教で登場した仏尊であり、その起源はゾロアスター教などのイラン系の信仰に由来するという説もある。それによると、光明の最高神アフラ・マズダーが無量光如来、無限時間の神ズルワーンが無量寿如来の原型とされる。また、西方極楽浄土は、ゾロアスター教の起源であるイラン地方、もしくは肥沃で繁栄した古代バビロニア地方が背景になっているとする説もある。
[編集] 日本語への影響
鎌倉時代以降、日本では浄土教の隆盛を受けて、阿弥陀如来に関連した単語や言い回しが登場するようになる。
十八番(おはこ)
前述のとおり、浄土教において四十八願のうち第十八願を本願として重要視することから、もっとも得意なことを指す。
あみだくじ
現代のものは平行線だがかつては放射線状であり、阿弥陀如来像の光背に似ていることから。
他力本願
前述のとおり努力しないことや無責任であることを表現するのに使われるが、本来の意図とは違う転用である。
[編集] 真言
オン・アミリタ・テイゼイ・カラ・ウン
南無阿弥陀仏の意味
法然上人の浄土宗・浄土真宗とは、南無阿弥陀仏と申せば往生すると信じてこれをとなえることです。何するときもこれをとなえつつする。行住坐臥に念仏申しながら生活することです。法然や親鸞に魅力を感じてその思想や生き方に共感を覚える人は多くいますが、南無阿弥陀仏の六文字をとなえることとなると、これに抵抗を覚える人は意外と多いのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏の意味といいますと、通常、南無は「帰依する」、阿弥陀仏は「無量の光明と寿命をもったさとれる人」であるなどと説明します。しかし、だからといって、すぐにこれをとなえようということにはなりません。そこで、ここではちょっと通常では言わないような説明を試みたいと思います。
南無阿弥陀仏は、何でも良い
別に「ナムアミダブツ」でなくても良いのです。源大夫という荒武者が「阿弥陀仏よやをいをい」と呼び続けて往生したという物語があります(『今昔物語』)。浄土宗第二祖の鎮西上人は、京都の宇治のあたりに住んでいた行者が阿弥陀仏に礼拝ばかりして往生したと法然上人から聞いています(『末代念仏授手印』)。法然上人は「無言念仏もよい。ただ、無言念仏は声に出す念仏より劣ると思うのはよくない」(『往生浄土用心』)と仰っています。ただ、阿弥陀仏が「声に出して南無阿弥陀仏と呼ぶものを救い取ろう」と本願をお建てになっているので、ナムアミダブツと声に出すのが良いのです(『十二問答』)。
しかし私はもっと極端に言いますと、南無アミダブツではなく南無カミサマであれば、阿弥陀仏という名が神さまに変わるだけです。南無ダミダブツであれば、阿弥陀仏という名がダミダ仏に変わるだけです。名が変わるだけでその本質は変わらないのです。ただ、私は南無カミサマでもなく南無ダミダブツでもなく、南無阿弥陀仏ととなえよと言われているので、それを私が勝手に変えるわけにはいかないのです。そのわけは、次の通りです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏からの試験
南無阿弥陀仏と申し続けよというのは、阿弥陀仏が私に与えた試験ではないでしょうか。すなわち、本願を受け入れられたかどうかを試す試験ではないでしょうか。
法然ファンや親鸞ファンの多くは、南無阿弥陀仏ととなえるのに抵抗があるのではないかと申しました。もしそうであれば、法然・親鸞の思想や生き方に共感し、自分はそれと同じ生き方をしていると思っていても、南無阿弥陀仏を申すという試験に合格していないので、本願を受け入れてはおりません。南無阿弥陀仏など言わなくてもいい、という自力心が、少なくともその一点で残っているからです。
また南無阿弥陀仏と申すのが重要と聞いて、ひたすら南無阿弥陀仏と申している人もいるでしょう。その場合でも、阿弥陀仏の本願を受け入れられないうちは、本願を疑っている自分というものをだまして念仏しているので、念仏申すのがだんだん苦しくなってきます。なぜ南無阿弥陀仏と言わなければいけないのかと、疑問が湧いてきます。これは私の経験です。これもいまだ試験に合格していません。
そこで、南無阿弥陀仏と言えというのにカミサマと言ったりダミダブツと言ったのでは、やはり「何と呼んだってよい」という自力心が邪魔をして本願を受け入れていないことがわかるのです。
本願を受け入れるには
本願を受け入れた心は三つの側面があるということで「三心(さんじん)」と呼ばれますが、その三心をどうやって手に入れるかについて、法然上人のお考えが『東大寺十問答』に書かれています。
ひとつは智具(ちぐ)の三心というものです。これは念仏のおしえについて経文などをいろいろと勉強して、そのうち三心が手に入るというものです。本願を受け入れぬ自分の心に、何とか本願の旨を聞かせ続けることによって、本願を受け入れるチャンスをつくろうというのです。
もうひとつは行具(ぎょうぐ)の三心です。これはひたすら南無阿弥陀仏をとなえつづけるうちに、自然に三心が手に入るというものです。本願を疑っている自分をだましてひたすら念仏を続けると、念仏申すのが苦しくなって、自分の本願を疑う自力心に対面できます。疑いの自力の心のどうにも動かぬことを知り、それが自分の救われない所以であるとわかったときに、本願を受け入れるチャンスが生まれます。
「魔界というものは衆生を誑かすものなり。一切の行業は自力を馮む故なり」(『大胡太郎へ遣わす御返事』)
その帰結として、念仏を続けられていることが、三心を手に入れた目安となるのです(『諸人伝説の詞』)。
法然上人の説明は何だったか?
なぜ阿弥陀仏は南無阿弥陀仏ととなえる者を救うのかと浄土宗でいうとき、通常は法然上人の解釈をもってきます。それは、阿弥陀仏の御心はわからない。しかし法然上人は、(1)阿弥陀仏という名前には阿弥陀仏のありとあらゆるすばらしさが代表されている、すなわち名は体を表すということ。(2)布施をしろとか寺を建てろと言えば金持ちしかできないし、戒律を守れと言えば品行方正の人しかできない、しかし南無阿弥陀仏ととなえることは誰にでも出来る。以上のふたつの理由を法然上人は挙げたのです。
この二番目の理由、誰にでもできるから南無阿弥陀仏ということは、実はすでにお話ししたことです。つまり阿弥陀仏からの試験ということです。南無阿弥陀仏と口で言うのはおそろしいほど簡単なことです。南無阿弥陀仏は誰にでも入口の開かれた試験です。ただ、それを言い続けるには、本願を受け入れるということが必要になります。
一番目の理由、阿弥陀仏という名前には阿弥陀仏のありとあらゆるすばらしさがこもっているということは、わかりやすいようでいて、わかりにくいことです。法然上人の解釈を繰り返すだけでは、その真意がなかなか汲み取りにくいだろうと思うのです。
阿弥陀仏は南無阿弥陀仏そのもの
私はさきに、もしも浄土宗が、南無ダミダブツと言えば救われると信じて南無ダミダブツと申す宗教だったら、彼の仏の名がダミダブツに変わっていただろうけれども、その本質は変わっていなかっただろうと申しました。私の言いたいのは、浄土宗が南無阿弥陀仏と申す宗教だから彼の仏が阿弥陀仏という名なのであって、その逆ではないだろうということです。
本願を受け入れて試験に合格すると、口に南無阿弥陀仏と申すという簡単なことによって、自力の心を捨てて彼の仏の本願に身をまかせるということがすべて達成されてしまったことがわかります。彼の仏はただ、口に南無阿弥陀仏と疑問ない心で言わせたかった。なぜなら、そのときに同時に自力の心、念仏を疑う心が捨て去られ、彼の仏に身を任せるということが同時に達成されるからです。彼の仏は、これを言わせることだけが目的で、いろいろと私に働きかけていたのだったとわかります。彼の仏の救いのすべては、実はこの南無阿弥陀仏を言わせることだけにあったとわかります。すべての他の救いは、ここから自動的に出てきます。
「仏の本願に望むれば、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるに在り」(『大胡太郎の妻室へ遣わす御返事』)
そういう意味で、この南無阿弥陀仏は、彼の仏そのものです。だから彼の仏は阿弥陀仏なのです。南無阿弥陀仏が阿弥陀仏の全体を含んでいるというのは、つまりは南無阿弥陀仏と口に出すことが阿弥陀仏の救いのそのものであるからなのです。南無阿弥陀仏と口に出すということだけで私を救う働きであるから、その名を阿弥陀仏というのです。私はそのように思います。
なぜ南無阿弥陀仏ととなえるの?
これまで述べてきた私見をまとめます。南無阿弥陀仏は阿弥陀仏から私たちに与えられた、誰にでも入口の開かれた試験です。阿弥陀仏の本願を受け入れられたかどうかを試す試験です。それを言う必要性に疑問を持っているうちは南無阿弥陀仏ととなえませんから不合格です。必要性を感じないのに南無阿弥陀仏ととなえ続ければ、念仏申すのがしだいに苦しくなり、本願を疑っている自分というものに対面できます。その疑う自分、自力心の自分というのが救われない自分の原因だと知られれば、本願を受け入れるチャンスです。阿弥陀仏の救いとは、疑いを持たずに南無阿弥陀仏と言わせることでした。それがすなわち本願を受け入れるということでした。
本願を受け入れたとき、それは自力をたのみにしなくなった時です。自分は救われるしかない存在だと深く自認したときです。またその自分のために阿弥陀仏が救いを用意してくれていた、それがこの念仏であったと知るときです。自分が救われるべくして存在していたとわかるときです。そのとき、人生というものに自力は無用であったと知らされ、力みの抜けた前向きの人生が始まるのです。
もともと五節句(正月、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日)は総じて「女性のための日」でした。
女性は普段よく働いているから、この時くらいは十分に休養するという意味が込められていました。
いつもは、あまり行き来のできない家などを訪問したりして楽しんでいました。
普段食べられないものも食べ、野や山にも遊びに出かけました。ちなみに、「ひなあられ」も、その際の携帯食料だったといわれています。節句とは、いわば「外に出ていく」遊楽の日だったのです。
ところで、「ひな人形」の「お内裏さま(男雛)」と「お姫さま(女雛)」は、どちらが右で、どちらが左なのでしょうか。実は、関東と関西では反対になります。関東では、男雛が右(向かって左)、女雛が左(向かって右)。これは「右が上位」という考えに従ったものです。たとえば「右腕(最も優れた部下)」、「右に出るものはいない(1番である)」、「左遷(位を下げる)」など、今もその考えが残っています。(^○^)
つまり、男性優位の並べ方といえるかもしれませんね。
一方、関西では元々は男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)です。これは、上方(関西)では、女性の力が強く、男性と対等という意識があったからとされています。(別の説もある)
現代では、ひな人形の多くが関東で作られているため、関東風の並べ方が全国的になっているようです。要は、どちらが正しいということではなく、好きな方でかまわないとされています。
1.桃は、「生命力」「不老」の象徴でもあります。
「桃」の文字は「木」へんに「兆」と書きます。
日本では、これが「兆ほどもたくさんの実(子供)をならせる」と解釈され、安産をはじめ「強い生命力」の象徴とされました。魔を払う力があるという俗信も、すでに約千三百年前の『古事記』に出てきます。また桃の実は栄養価も高く、病魔を退散させると考えられていました。また、鬼を退治するとされ、桃太郎の物語にも結びつくことになります。これは、古い記録では、「お婆さんが桃を川で拾う」のではなく、夫妻が桃を食べて若返り、元気な赤ん坊を産む話になっているようです。
1.桃は、また「平和」の象徴でもあります。
有名な中国の「桃源郷」は、秦の世の戦乱を避けて、桃または桃に囲まれた別天地に隠れ、五百年以上も平和に暮らしていた人々の物語です。また、周の武王は、殷の紂王を破ったあと、「軍備撤廃」を示すために、牛を桃の林に放ったといいます。(中国の古典『尚書』による)『三国志』で、劉備、関羽、張飛が戦乱の世を救う誓いを行ったのも、「桃の園」でした。「桃園に義を結ぶ」の古事として有名です。
このように、「桃の節句」には、「遊楽」「生命力」「平和」の意義があります。
その意義において、この日は楽しい1日であり、この日を迎える1年ごとに若々しくありますよう願っております。
−− SGI会長、桂冠詩人、池田大作博士のスピーチより −−
四旬節はつらい?
"新春"ような美しい言葉を耳にすると心はずむ喜びが生じてきます。反対に冷たく暗い感じを与える言葉もあります。"四旬節"はその一つでしょう。灰の水曜日から(本年2月6日)、日曜日を除いて、聖土曜日まで40日間も長く続くこの期間を楽しく迎える気にとてもなれないものです。でも、信仰の目で見れば、一番大事な救いの喜びをいただくときではないでしょうか?
四旬節というと、"断食・犠牲と祈り"の3つの業が浮かんできます。しなければならないと思うと、辛いものですが、それを心をこめて捧げると、教会とともに聖なる3日間に向かって歩んでゆく効果的な期間になります。
よい四旬節を過ごすよう、自分が神さまとそして同時に他の人へ近づいていくように、ヒントを紹介しましょう。
・こころから祈ること。例えば、電車に乗って、散歩しながら、家事をこなしながら。あるいは、仕事や宿題を始める前に。
・日曜日ごとの「聖書と典礼」のみ言葉の一節を選んで味わいながら、その過の自分の霊的な糧とすること。
・毎日、他人のために、頼まれる前に自発的によい業を一つ行うこと。
・他人から書を受けたり、不愉快なことを言われた時、怒ったり攻撃したりする前に、ちょっと聖書の助けを頼むこと。(自分の気持ちを抑えるよりも、聖霊の力によって心を変えていただいたほうがいいでしょう?)
・自分に必ずしも必要でないのに、自分の欲望を満たすために高価なものを買ってしまった時、その値段の数パーセントを分かち合いの心で、貧しい人とか、失業者とか、施設にいる子どもとかのために、四旬節献金をしたり、福祉団体に献金したりすること。
・あの人に電話したら喜ぶ、訪問したら善いと、常々思っていることを実行すること。
・からだのゆるす限り、献血をすること。(命を救うことに協力できるでしょう!)
などなど…。よい業を行うことによって、神さまに喜んでいただくと同時に、自分の心が少しずつ清められて、主の復活の大きな救いの喜びを深く味わうめぐみをいただくのです。思い切って、辛いと思っていた四旬節を深い霊的な訓練の期間に変えてみませんか?
コーナン・ミシェル 神父
"新春"ような美しい言葉を耳にすると心はずむ喜びが生じてきます。反対に冷たく暗い感じを与える言葉もあります。"四旬節"はその一つでしょう。灰の水曜日から(本年2月6日)、日曜日を除いて、聖土曜日まで40日間も長く続くこの期間を楽しく迎える気にとてもなれないものです。でも、信仰の目で見れば、一番大事な救いの喜びをいただくときではないでしょうか?
四旬節というと、"断食・犠牲と祈り"の3つの業が浮かんできます。しなければならないと思うと、辛いものですが、それを心をこめて捧げると、教会とともに聖なる3日間に向かって歩んでゆく効果的な期間になります。
よい四旬節を過ごすよう、自分が神さまとそして同時に他の人へ近づいていくように、ヒントを紹介しましょう。
・こころから祈ること。例えば、電車に乗って、散歩しながら、家事をこなしながら。あるいは、仕事や宿題を始める前に。
・日曜日ごとの「聖書と典礼」のみ言葉の一節を選んで味わいながら、その過の自分の霊的な糧とすること。
・毎日、他人のために、頼まれる前に自発的によい業を一つ行うこと。
・他人から書を受けたり、不愉快なことを言われた時、怒ったり攻撃したりする前に、ちょっと聖書の助けを頼むこと。(自分の気持ちを抑えるよりも、聖霊の力によって心を変えていただいたほうがいいでしょう?)
・自分に必ずしも必要でないのに、自分の欲望を満たすために高価なものを買ってしまった時、その値段の数パーセントを分かち合いの心で、貧しい人とか、失業者とか、施設にいる子どもとかのために、四旬節献金をしたり、福祉団体に献金したりすること。
・あの人に電話したら喜ぶ、訪問したら善いと、常々思っていることを実行すること。
・からだのゆるす限り、献血をすること。(命を救うことに協力できるでしょう!)
などなど…。よい業を行うことによって、神さまに喜んでいただくと同時に、自分の心が少しずつ清められて、主の復活の大きな救いの喜びを深く味わうめぐみをいただくのです。思い切って、辛いと思っていた四旬節を深い霊的な訓練の期間に変えてみませんか?
コーナン・ミシェル 神父
すべての人の救いを望まれる神よ、ユスト高山右近は、「全世界に行って、福音をのべ伝えなさい」というキリストのことばにこたえ、苦しむ人を支え、困難のうちにある人を助け、あなたへの愛をあかししました。また、世の権力に屈することなく福音に忠実に従う道を選び、すべての地位と名誉を捨て、幾多の困難をすすんで受け入れ、ついには異国へ追放されました。このように、あなたはユスト高山右近をとおして、すべての人に仕える者の姿を示してくださいました。
父である神よ、どうか私たちの祈りを聞き入れ、福音を力強くあかししたこの神のしもべを福者の列に加えてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
(神よ、願わくばユスト高山右近の祈りによって奇跡が起こり1日も早く福者と仰ぐ誇りと喜びをお与えくださいますようにアーメン)
父である神よ、現代に生きるわたしたちが、あなたの忠実なしもべユスト高山右近にならって、この世の力や誘惑に惑わされることなく生き、み名を知らない人びとに福音をあかしできるよう、ゆるぎない信仰と勇気で満たしてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
父である神よ、どうか私たちの祈りを聞き入れ、福音を力強くあかししたこの神のしもべを福者の列に加えてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
(神よ、願わくばユスト高山右近の祈りによって奇跡が起こり1日も早く福者と仰ぐ誇りと喜びをお与えくださいますようにアーメン)
父である神よ、現代に生きるわたしたちが、あなたの忠実なしもべユスト高山右近にならって、この世の力や誘惑に惑わされることなく生き、み名を知らない人びとに福音をあかしできるよう、ゆるぎない信仰と勇気で満たしてください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン
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