幸せを呼ぶワイルドベリー! テレビなどで、大ブレイク中のワイルドストロベリー(ワイルドベリー)の苗を、こちらからご購入いただけます!!
ワイルドストロベリー(ワイルドベリー)はバラ科の多年草で、昨年テレビでも話題になりました。この品種は四季咲きの野生種で、小さな実をつけます。実をジャムにしたり、葉をハーブティーとして利用できます。
野イチゴの葉、根、果実は、古くから薬用として用いられ、家庭常備薬として愛用されていました。繁殖力も強く、育てやすいのが特徴です。親株からランナーが伸びて、すぐに根を張るところから、幸せを呼び、家庭円満の象徴とされています。
葉も茎も果実も利用できます。葉は、消化器の不調に穏やかな収斂作用があります。根は、下痢などによいとされています。茎は、創傷の治癒によいとされ、果実は美肌を作ります。シミ、そばかすによく、ビタミンB、C、E、ミネラルを多く含みます。
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たの町に用いられるのです(BlogPet)
DATE : 2007-03-31-Sat  Trackback 0  Comment 0
アレルヤが、ユダヤ人の身代わりとなって、出エジプト記(第12章)
の出来事を記念しています
 四旬節の最後の罰として、焼いて灰の♪
 この主日
前ころに教会に持ち寄られ、焼いておいたイスラエルの民の家は「過ぎ越され」
たの町に用いられるのです
 ただし、子羊の血を、戸やシュロの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「アグネス」が書きました。
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CATEGORY : カトリック
前ころに教会に持ち寄られ(BlogPet)
DATE : 2007-03-31-Sat  Trackback 0  Comment 0
日曜日ユリアナたちが、新しい「主の「ういご」
は打ち殺されなかったの♪
夜は、祝福されたイスラエルの民の家は「ういご」
は打ち殺されなかったよ
間近は、キリストの勝利
をすべて打ち殺されなかったのは、広い芽生えと
間近は人類の受難の朗読が「枝の主日」
と呼ばれていたように、イスラエルの人間と動物の「ういご」
前ころに教会に持ち寄られ、焼いて灰の水曜日
前ころに教会に持ち寄られ、そのためです
 この主日
となり、私たちのためです
と、ユリアナが考えてるみたい♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「わんこ」が書きました。
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 四旬節の最後の日曜日は、「受難の主日」あるいは「枝の主日」と呼ばれています。

 ユダヤ人の過越祭(すぎこしさい)を間近に控えて、イエス・キリストは、ベトファゲ(ベテパゲ)からロバに乗ってエルサレムの町に入られました。 すると大勢の群衆は、「イエス・キリストがダビデ王のように、イスラエルの国を復興させる王としてエルサレムに来られた」かのように考え、自分の服やシュロの木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホザンナ」と叫んで、イエス・キリストを歓迎しました。

 この出来事に因(ちな)んで今日でも、ミサの始めにシュロの木の枝を祝福し、それを手に持って行列しながら、主の「エルサレム入城」を記念します。 この主日が「枝の主日」とも呼ばれるのは、そのためです。

 しかしイエス・キリストがエルサレムにおいでになったのは、使徒たちに何度か予告していたように、十字架にかけられて、すべての人の身代わりとなって、自分の命をお捧(ささ)げになるためでした。 この御受難の出来事を記念するために、この日の福音では、キリストの受難の朗読が行われます。

 信徒は、祝福されたシュロの木の枝を各家庭に持ち帰って、十字架に付けたり、家庭祭壇に飾ったりします。 これは人類のために、十字架の木によって死を打ち滅ぼし、「正義の芽生え」(エレミア33:15)として復活し、永遠の命に入られた「キリストの勝利」を予告するシンボルであると言われています。

 シュロの木の枝は次の年の「灰の水曜日」前ころに教会に持ち寄られ、焼いて灰の儀式に用いられるのです。

 註:ユダヤ人の「過越祭」とは、出エジプト記(第12章)の出来事を記念してお祝いする、ユダヤ教のお祭りです。 主は、イスラエルの民をファラオがどうしても解放しない最後の罰として、エジプトの国をめぐってエジプトの人間と動物の「ういご」をすべて打ち殺されたのです。 ただし、子羊の血を、戸や框(かまち)に塗っておいたイスラエルの民の家は「過ぎ越され」たので、イスラエルの「ういご」は打ち殺されなかったのです。 

聖週間

 復活祭に先立つ一週間は「聖週間」と呼ばれ、その中でも、「主の晩餐の夕べのミサ」(聖木曜日-夕方-)から、「主の受難の祭儀」(聖金曜日-夕方-)を経て、「復活の聖なる徹夜祭」(聖土曜-夜-)を頂点とし、「復活の主日」に至る三日間が、新しい「主の過越しの聖なる三日間」と呼ばれるようになりました。

 この「新しい過越し」が、ユダヤ人の過ぎ越し祭(ニサン月15日)とは別に行われることは、ユダヤ人の過越祭の小羊に代わって、イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」となり、私たちのために復活の命をもたらしてくださったことを象徴しているかのようです。
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目玉焼き ソースor醤油(BlogPet)
DATE : 2007-03-31-Sat  Trackback 0  Comment 0
BlogPet 今日のテーマ
「目玉焼きはソースで食べますか?醤油で食べますか?」
何もかけない
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聖母 【あめなるきさきの】 (#314)
DATE : 2007-03-30-Fri  Trackback 0  Comment 0

1 あめなる きさきの み母マリア 慕わし
地にては くるしみ あめにては さかゆ
ゆかしき そのみ名
2 みつかい こぞりて 聖(きよ)き み名を称えつ
あさなに ゆうなに みうたを ささげて
みそばよ はなれず
3 なみだの たにまに み母マリア 慕いつ
みたすけ もとめて いのる わがこころ
みそなわしたまえ
4 なみだを たたえつ み側(そば)慕う世の子ら
まみゆる その日を よろこび しのびて
のぞみはいやまず
5 のぞみは みそらの 暁(あけ)の星とかがやき
あさごと あおぎて みははよ なつかし
みたすけ ねがいて
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きょうミルクは、猫好きで聖者に絶したかもー。
きのうはさんも絶したよ♪

きのうはここまでランチョンマットのもとb l o gしなかった?ランチョンマットとここにランチョンマットのもとb l o gする?*このエントリは、B l o g P e t(ブログペット)の「ねずみ」が書きました。
ねずみはb l o gする?*このエントリは、B l o gしなかった。




*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミルク」が書きました。
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きのうキティ&ぺディが(BlogPet)
DATE : 2007-03-30-Fri  Trackback 0  Comment 0
きのうキティ&ぺディが、絶ー!


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「キティ&ぺディ」が書きました。
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きのうはうたも絶したかもー(BlogPet)
DATE : 2007-03-30-Fri  Trackback 0  Comment 0
きのうはうたも絶したかもー。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「トビア」が書きました。
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かけよるわれをあわれみて(BlogPet)
DATE : 2007-03-30-Fri  Trackback 0  Comment 0
昨日、アレルヤが
今日はネットできのうやおかし言葉や、きのうを悲します弱きわれに かけよるわれをあわれみて さとしみちびく いのちの?
って言ってたけど…

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ダニエル」が書きました。
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みそらまで絶したいです(BlogPet)
DATE : 2007-03-30-Fri  Trackback 0  Comment 0
きのうまさいで、絶したかったの♪
みそらまで絶したいです。
まさいは絶した。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「エリザベット」が書きました。
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marikoで、いのちをblogしたかも。
きのうジョセフが、言葉にblogしたいです。
きのうジョセフが、いのちもblogしなかった。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ジョセフ」が書きました。
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きのう、ノンで言葉がblogするはずだった。

【ゴルゴタ】 (#172)
1ゴルゴタいたまし 罪なき君は
けがれしわれらの 痛みは尽きず
諸人とともに みちびき仰がん



*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「佐々木」が書きました。
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今日はネットで
主やおかし言葉や、
主を悲します
弱きわれに かけよるわれを
あわれみて さとしみちびく いのちの?
 かけよるわれをおかし 主を悲します
弱きわれに 主やおかし言葉や、おかし言葉や、
主やおかし言葉や、おかし


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「Mystica」が書きました。
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主への讃美 テ・デウム 【われ神をほめ】 (#12)
DATE : 2007-03-29-Thu  Trackback 0  Comment 0

1 われ 神をほめ 主とぞ 称えます
永遠(とわ)の み父を あめつちと共に
みつかい うとう ケルビムのうた
セラフィムの歌 絶ゆるひまなし
2 「聖なる 聖なる 聖なる み神よ
よろずの民を ひきいたもう我主(わがしゅ)
あめつちに満つ とわの栄え」と
さけぶ その声 みそらに とよむ
3 尊き み弟子ら ほまれの証聖者
いのち ささげし すべての殉教者
神の みまえに 競い歌えば
はかりつきせぬ みいつ かがやく
4 父 み子 み霊(たま) 三位(さんい)にましませど
ひとりの み神 世を救わんため
おとめに やどり 苦しみ しのび
死と罪に勝ち 天にのぼりぬ
5 聖(きよ)きを求め 悪しきを退け
主は また来たり この世 裁きたもう
主よ おん血もて あがないたまい
み国のうちに 入(い)れたまえかし
6 天においては み神に栄光
地にある われら なにを誇るべき
あわれみたまえ 主によりたのむ
われらの望み 永久(とわ)に かわらじ
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きょうシャロームは(BlogPet)
DATE : 2007-03-28-Wed  Trackback 0  Comment 0
きょうシャロームは、セバスチャンは言葉blogしたかもー。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「シャローム」が書きました。
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という句があります(BlogPet)
DATE : 2007-03-28-Wed  Trackback 0  Comment 0
きょうミッキーがユダヤで息するつもりだった?

 今年は暖冬だったのであるといわれます。
」という映画を見られたからこそ、「神よー」と叫び、息絶えられた方もあると思います。
イエズスのこの叫びは、十字架上での苦しみの激しさを肌で感じました。
ユダヤ人の憎悪と侮辱を一身に受け、十字架を背負って生きています。
」と。
カトリック病院の病室には十字架が掲げられているのはその時イエズスは詩編二二を唱えておられたのです。
なんという謙虚さと人類に対する愛でしょうか。
ミッキーたち人類の罪を背負い、ミッキーたちは四旬節に入り、キリストの受難と死に思いを馳せ、自分の罪を悔い、犠牲と祈りと愛の業に励もうと努めています。
イエズスが激しく鞭打たれ、血だらけになったのでしょう。
しかしこの苦しみのどん底にあっても目線に入る所に十字架を掲げ毎日十字架のイエズスを仰ぎ見るようにしましょう。
その時父なる神が沈黙を守り、助け手をくださらなくても、イエズスにとっては神はあくまでも「ミッキーの神」なのですか)」とではなく「わが神よー」と。
カトリック病院の病室には 「あなたはミッキーの神。
」という句があります。
詩編二二の中には十字架のイエズスを仰ぎ見ましょう。
しかしこの苦しみの激しさを表わしています。
自分の十字架が一番重いと感じることができませんでした。
自然界の木々も寒さに耐え、あたかも死んでしまったかのような落葉樹も、「ミッキーもあなたの救いのためにこんな十字架を背負って生きています。
イエズスは最後まで神への信頼を持ち続けられたのです。
ミッキーが担ってあげるから心配するな。
」とではないかといわれます。
どれほど苦しくても目線に入る所に十字架を担ったのではなく「わが神よ、どうしてミッキーをお見捨てになったその姿は直視することがあります。
(実は他の人の十字架にはりつけにされ話題となった「パッション」という映画を見られたからこそ、「神よー」と息を引きとられたのでしょうか。
ミッキーたち人間の立場に立って、人間として父なる神にお詫びをするため、生命までなげうってくださったのですよ。
ミッキーが担ってカルワリオの山に登って行かれ、十字架に比べると軽い。
)そうした時ミッキーたちは十字架が掲げられているのはその言葉を心に留めながらこの叫びを発したのでしょう。




*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミッキー」が書きました。
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きのうはここまでランチョンマットとblogしなかった?
ランチョンマットとここにランチョンマットのもとblogしなかった。
ねずみはblogする?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ねずみ」が書きました。
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悔悛 【主のもとに】 (#162)
DATE : 2007-03-28-Wed  Trackback 0  Comment 0

  (おりかえし)
主のもとに かけよるわれを
あわれみて さとしみちびく いのちの言葉
1 罪をおかし 主を悲します
弱きわれに 立ち帰りの 力を賜え
  主のもとに かけよるわれを
あわれみて さとしみちびく いのちの言葉
2 へりくだりて みもとに嘆く
われの上に 主の憐れみを 垂れさせたまえ
  主のもとに かけよるわれを
あわれみて さとしみちびく いのちの言葉
3 背くまじと 誓いてもなお
背くわれを あわれと思い 捨てたまわざれ
  主のもとに かけよるわれを
あわれみて さとしみちびく いのちの言葉
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【ゴルゴタ】 (#172)
1 ゴルゴタいたまし 罪なき君は
けがれしわれらの 救いのために
血しおに染める み手さしのべて
あめなるみ神に みちびきたもう
2 いばらのかむりに ひたい傷つき
むかしに変わりし みすがた哀れ
いまわのきわの はげしき痛み
我らのためにぞ 受けさせたもう
3 みちから尽きはて こうべをたれて
十字架のうえに 息絶えたもう
救いのみ子の 痛みは尽きず
諸人とともに みちびき仰がん
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きょう椀で、神はblogしないです。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「サラダ」が書きました。
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深で大きい深きみ母や(BlogPet)
DATE : 2007-03-27-Tue  Trackback 0  Comment 0
深で大きい深きみ母や、処女など慈しみ
救いや、百合とかをBLOGした!
と、ルチアが考えたの。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ルチア」が書きました。
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今年は暖冬だったとはいえ、朝晩は厳しい寒さを表わしています
なんという句が沈黙を守り、助け手をくださらなくてもあると思います
詩編二二を唱えておられたのであるといわれます
イエズスが激しく鞭打たれ、血だらけになってしまわれるほど、痛みが最高頂だったのでしょう
(実は他の人の十字架にはりつけにされたのではなく「わが神よ、わが神よ、どうして私を肌で感じました」)
とか思った?


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「キャット」が書きました。
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汚れなく生れし恵 めでたかり
きよしうるわし 神のみ母は
1 処女にて 救いの主の み母たり
神のみわざの 奇しきみめぐみ
  汚れなく生れし恵 めでたかり
きよしうるわし 神のみ母は
2 麗しく 咲き匂いぬる 百合の花
処女マリアの よそおいにこそ
  汚れなく生れし恵 めでたかり
きよしうるわし 神のみ母は
3 慈しみ 深きみ母と 世の人は
慕いまつりて いのりささぐる
  汚れなく生れし恵 めでたかり
きよしうるわし 神のみ母は
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十字架上のイエズスを仰ぎ見よう
DATE : 2007-03-27-Tue  Trackback 0  Comment 0

 今年は暖冬だったとはいえ、朝晩は厳しい寒さを肌で感じました。自然界の木々も寒さに耐え、あたかも死んでしまったかのような落葉樹も、しつかりと大地に根をはり、三月にはやがて若芽をだします。私たちは四旬節に入り、キリストの受難と死に思いを馳せ、自分の罪を悔い、犠牲と祈りと愛の業に励もうと努めています。数年前上映され話題となった「パッション」という映画を見られた方もあると思います。イエズスが激しく鞭打たれ、血だらけになったその姿は直視することができませんでした。ユダヤ人の憎悪と侮辱を一身に受け、十字架を担ってカルワリオの山に登って行かれ、十字架にはりつけにされたのです。三時間にわたって、言語に絶する苦しみを耐え忍び 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか)」と叫び、息絶えられたのです。イエズスのこの叫びは、十字架上での苦しみの激しさを表わしています。イエズスはその時父なる神が自分と共にいることさえ感じられなくなってしまわれるほど、痛みが最高頂だったのでしょう。しかしこの苦しみのどん底にあった時も、「神よー」とではなく「わが神よー」と叫んだ。イエズスは詩編二二を唱えておられたのであるといわれます。詩編二二の中には 「あなたはわたしの神。」という句があります。イエズスはその言葉を心に留めながらこの叫びを発したのではないかといわれます。どれほど苦しくても、どれほど神が沈黙を守り、助け手をくださらなくても、イエズスにとっては神はあくまでも「私の神」なのです。イエズスは最後まで神への信頼を持ち続けられたからこそ、「私の魂をみ手に委ねます。」と息を引きとられたのです。私たち人類の罪を背負い、私たち人間の立場に立って、人間として父なる神にお詫びをするため、生命までなげうってくださったのです。なんという謙虚さと人類に対する愛でしょうか。私たちも色々な十字架を背負って生きています。自分の十字架が一番重いと感じることがあります。(実は他の人の十字架に比べると軽い。)そうした時私たちは十字架のイエズスを仰ぎ見ましょう。その時イエズスは言われるでしょう。「私もあなたの救いのためにこんな十字架を担ったのですよ。私が担ってあげるから心配するな。」と。カトリック病院の病室には十字架が掲げられているのはそのためです。家庭にあっても目線に入る所に十字架を掲げ毎日十字架のイエズスを仰ぎ見るようにしましょう。
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の永福を受くるを得しめ給わんことを(BlogPet)
DATE : 2007-03-26-Mon  Trackback 0  Comment 0
そういえば、ネコ飼いが
▲されば我らをして、謙遜と単純なる心とをもって、聖テレジアの跡を慕わしめ、「の永福を受くるを得しめ給わんことを、主のおんいつくしみによりて願い奉る。
とか思ってるよ。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「インマニュエル」が書きました。
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「ああ全能なる天主が助けとなして育て給い、かつ人類家族を鼓舞され給う御者、栄光に満ちたる聖テレジアよ、我御身の奇跡的なるとりなしに嘆願し奉る。
御身は天主の御心より来る身体及び精神のすべての必要を得させるにおいていと力強きなり。
聖にして母なる公教会は御身を”奇跡の驚くべきなる御者、近代におけるいと偉大な聖人”と宣言したり。

今我が御身に熱心に懇願し奉るわが請願にこたえ給え(ここで願う)。
かつ御身の”地上に善をなしつつ、わが天国を過ごさん。
”天国よりバラの雨を降らさん。”の御約束を果たされんことを。

小さき花よ、人々とわが生活のうちに天主の御顔を見奉らんがため、かつ全き信頼をもちて天主を愛し奉らんがため、御身の幼な子の如き信仰を我に与え給え。

聖テレジア、わがカルメルの修道女よ、我御身の”いずくにおいても知られんことを”の請願を満たし、かつ御身を通じて他の者らをイエズスへと導き続け奉らん。 アーメン。」
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「いつくしみ深い御父よ、▲聖テレジアのうちに不思議な御業を行われたあなたをたたえ、つつしんでお願い致します。謙遜で小さいものに御国を与えられる神よ、私達が信頼して聖テレジアの歩んだ道をたどり、聖女があなたに身を捧げて、すべての人の救いのために御あわれみを請い求めた時の力強い愛を、私達の中に燃え立たせて下さい。私達の主イエズス・キリストによって。 アーメン。」

「主イエズス・キリスト、主はかつて、汝らもし幼児(おさなご)の如くならざれば、天国に入ることあたわざるべしとのたまえり。▲されば我らをして、謙遜と単純なる心とをもって、聖テレジアの跡を慕わしめ、天国の永福を受くるを得しめ給わんことを、主のおんいつくしみによりて願い奉る。 アーメン。」

「聖テレジア、宣教の保護者よ、初めから世の時の終わりまでを通ずるうちの偉大な宣教者なる我らの主の御言葉を思い起こし奉る。”刈り入れは多いが、働く人は少ない。”いと偉大なる御身の霊魂に対する熱意を、今霊魂達のために働くもののため、同様の熱意を得させ給え。いまだイエズスを知らぬ数億もの者らが、主を知り、愛し、従うことが出来るよう、彼らの数を増やされんことを天主に乞い求め給え。 アーメン。」

「主イエズス・キリスト、主はかつて、汝らもし幼児の如くならざれば、天国に入ることあたわざるべしとのたまえり。▲されば我らをして、謙遜と単純なる心とをもって、聖テレジアの跡を慕わしめ、天国の永福を受くるを得しめ給え。御身は唯一なる天主、御父及び聖霊と共に生きとこしえにしろしめし給う。アーメン。」

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その準備もほんとに今日一日だけですけれど(BlogPet)
DATE : 2007-03-25-Sun  Trackback 0  Comment 0
そういえば、パンダくんが

今年は第4主日と降誕祭がちょうど重なっているので、その準備もほんとに今日一日だけですけれど、だからこそいつにもまして集中して、今夜イエスさまを迎えるのだという思いを生涯にして、この一日を過ごしたい。
っていってたの。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パパイヤ」が書きました。
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きょうは、ルルドが俳句を詠んでみようと思うの

 「あの祈り 宣教したる 祈りかな」


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ルルド」が書きました。
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今日はヨセフは、大きい
きょうと、
母との いまわの業(わざ)

エワしなかった
ラットたちが、とわ

母よ君が子 汝(なれ)
が母
み教え永久(とわ)
よ汝(な)
だよ♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ラット」が書きました。
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いつくしみ深い神よ、
わたしたちとともに祈って
御子によってゆだねられた
生涯、ネコ好きたちが、ネットで広い使命や、聖マリアなどかれらともに働き、
神の母で
神をアーメンしなかった
生涯は、ネコ好きが、
主キリストとか、
神の国のなかから、
あなたの民の一致のために
生涯をささげる司祭を選び、導いて
とか書いてみるの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミカエラ」が書きました。
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CATEGORY : カトリック
七つのお言葉 【おん身はむごき】 (#177)
DATE : 2007-03-25-Sun  Trackback 0  Comment 0

1 おんみはむごき 十字架のうえ
釘打たれます 痛みに耐えて
エワの末なる われらの業(わざ)を
知らでなしたり ゆるしませや
あめなる父に わびたもう
2 かたえにならぶ 十字架のうえ
その罪びとの いまわの願い
主はあわれみて 聞き入れましぬ
きょうぞみ国に ともに行かん
けだかきみ顔 向けたもう
3 仰げばしろき 十字架のうえ
つゆ乱れなき 聖なるみ声
さとしまいらす み母み弟子に
母よ君が子 汝(なれ)よ汝(な)が母
み教え永久(とわ)に とうとしよ
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いつくしみ深い神よ、
わたしたちのなかから、
あなたの民の一致のために
生涯をささげる司祭を選び、導いてください。
わたしたちがかれらともに働き、
神の国の証し人となって
御子によってゆだねられた
福音宣教の使命に
ますます駆り立てられますように。
神の母である聖マリア、
わたしたちとともに祈ってください。
主キリストによって。アーメン。
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日本と聖母マリア
日本に初めてキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師「フランシスコ・ザビエル」です。1549年8月15日に鹿児島の海岸に上陸しました。日本に着いた日が、ちょうど聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあって、ザビエルは、日本を聖母マリアに捧げました。
日本と聖母マリア 他人が、ひとの国を誰かに勝手に捧げるとはけしからんと怒る向きもあるかもしれませんが、当人は、そんなつもりは、まったくありませんでした。マリア様の保護のもとに置けば、日本の国民は幸せになれると思ったからです。

ザビエルが、日本を聖母マリアに捧げたせいかどうか分かりませんが、日本の歴史的な出来事と、聖母マリアの祝日が重なっている事実は不思議です。

日本が真珠湾攻撃と機をいつにして米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まったのは、1941年12月8日。カトリック教会では、12月8日は、聖母マリアが、その母聖アンナの胎内に宿ったことを記念する「無原罪の聖マリアの祝日」で、盛大に祝われます。カトリック国では学校や会社・商店は休みとなります。

太平洋戦争が終わったのは、1945年8月15日。この日は、前述のとおり、「聖母マリアの被昇天の祭日」で、これまたカトリック国では、国民の祭日として仕事は休み。

そしてサンフランシスコ講和条約が、サンフランシスコで調印されたのは、1951年9月8日。この日は、「聖母マリア」の誕生日に当たります。 さらに日本で建国記念を祝う2月11日は、「ルルドの聖母の祝日」となっています。
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 想像していた通り、やっぱりいつもより少ないですね、人が。(笑)今日の夜は降誕祭ミサですから、一日二度は大変だという方もおられるのかもしれません。皆さんには、この恵みのミサへようこそと申しあげたい。大切なんですよ、この待降節第4主日。この主日からは、主を迎える準備、主を世界に告げ知らせる準備の総仕上げをして降誕祭を迎えるわけですから。
 今年は第4主日と降誕祭がちょうど重なっているので、その準備もほんとに今日一日だけですけれど、だからこそいつにもまして集中して、今夜イエスさまを迎えるのだという思いを大切にして、この一日を過ごしたい。今日は特別な一日です。せめてこの一日くらいは、神の恵みを汚さないように、尊い一日として過ごしましょうよ。今夜のミサまでは、嘆かず、苛立たず、悪い言葉を口にせず、むしろ神の働きに協力し、周囲に喜びを生み出すようなことをして。

 それこそが、聖母マリアがなさったことです。救い主の誕生前からその到来を準備し、救い主の働きを手伝っていた聖母に倣わなくてはなりません。身ごもった聖母マリアは、すでに自分の中に救い主が宿っていることを知っています。自分がどこかに行けば、救い主もそこに行き、自分がそこにいれば救いの力が働き始めるのだということを、信じているのです。
 だから、聖母は「急いで」エリサベトを訪問する。これは聖母の訪問であると同時に、救い主の訪問なのです。普通はイエスが最初に会ったのは羊飼いとか学者たちとかいうイメージですけど、考えてみたら、イエスの方がもうすでに、生まれる前からあちこち訪問してるわけですよね。聖母と共に、聖母の胎の中で。そうして救い主が訪問すると、訪問されたほうの胎の子が喜び踊る。目に見える訪問の奥に、目に見えない訪問があり、救いの喜びが実現する。胎児なんて、まだ生まれる前で何もできない無力な存在に思えますけれど、その胎児が、すでにこの世に救いをもたらしている。これは、この世の力を超えた、圧倒的な天の力を感じさせる美しい出来事ではないでしょうか。
 それこそが待降節第4主日のこころであり、使命です。典礼暦的には、確かにイエスはまだ生まれておりませんが、この第4主日はすでにイエスを宿しています。この日、教会はすでに、隠しようもなくイエスの輝きを輝かせ始めているのです。降誕祭を前にしたわたしたちは、「我々のうちに神の愛そのものである救い主が生まれ出る」という、この世にこれ以上のことはないという最高の神秘を待ち望んでいますけれど、それを知っていながら待ち望めるということが、どれほど恵まれたことか。我々は、知らないものを待ち望んでいるのではないのです。待ち望む我々の内に、もうすでに救い主は宿っています。そして、救い主が宿っているということは、あなたがどこに行っても、どんな人と関わっても、そこで救い主が働くということです。イエスは神の愛であり、神の働きそれ自体ですから、存在そのもので喜びを生み出すことがおできになるのです。
 今日は、聖母のようにイエスを宿した尊いキリスト者として、降誕祭を準備する一日にいたしましょう。聖母のように「急いで」訪問する奉仕、イエスの訪問に奉仕することに、チャレンジしましょう。この夜、救い主はこの世界を訪問します。この世界内に現実に来られるのです。その先駆けのように、すでにイエスを宿したわたしたちが出かけて行って、挨拶し、奉仕し、喜びを生み出し、なによりも、共に救い主の降誕を迎えるためにすべての人をミサに招いて欲しいのです。クリスマス、キリストのミサに。

 神父はクリスマスシーズンにはあちらこちらに呼ばれていって、クリスマスの話なんかをするわけですが、つい先日、ある有名なプロテスタント系の大学のクリスマス礼拝の説教者として招かれて行ってきました。よくカトリックの神父を呼んだなあと思いましたけど、司会役の牧師先生が説教者を紹介するときに、「カトリック司祭がこの礼拝で説教壇に立つのは、我が校建学以来初めてのことです」って言ってました。「初」と言われると燃えますね。(笑)「よし、それじゃあ、ザ・カトリックな話しをしようじゃないか」と、思うわけです。すなわち、秘蹟の恵みのうちにキリストを宿したものとしてそこに立ち、キリストのことばを語る奉仕です。言うなればミサでの説教です。「キリストの福音を、キリストとひとつになって、今ここであなたに宣言するとそれが実現する」という奉仕。
 その意味では、ぼくには「自信」があるわけです。これは自分の働きじゃない、神の働きだという自信。自分は救い主を宿しているんだから、目の前に誰がいようが、どんな苦しみと向かい合おうが、「主は来られた、ここにおられる」と宣言すると、そこに救いが実現するというよろこびがある。だから気持ちとしては、一人でも多くの人に宣言したいわけです。学生たち、苦しんでますから。
 その礼拝は夜6時からでしたから、もう日が落ちて暗い。会場のチャペルに向かって暗いキャンパスを歩いていくと、「本日クリスマス礼拝、説教者晴佐久昌英神父」と書いてある看板が出ているわけです。で、ちょうどその前に学生が一人いて、じっとその看板を読んでたんですね。ぼくは、なんだか黙って通り過ぎることができず、つい声をかけてしまいました。「ぜひ、この礼拝、来てください。この『説教者晴佐久昌英』って、ぼくです。心込めてお話しますから、聞きに来てくれませんか」。びっくりした顔してましたけど、さて、果たして来てくれたんでしょうか。来て、あの宣言を聞いてくれたのでしょうか。暗いキャンパスで礼拝のポスターをじっと見ているその後ろ姿に、ぼくはとても切ないものを感じたんです。だって、人生の岐路になるかもしれないですよね、その礼拝に出るか出ないかが。それで、救い主に出会えるか出会えないかが変わっちゃうってこともありうる。輝いた人生を生きるか闇の中を生きるか、そんな岐路になることだってありうるわけでしょ。だからこっちも、精一杯お誘いせざるを得ないですよ。是非来てくれ、聞いてくれと。

 実際、説教をしているとき、ポロポロと涙こぼして聞いている学生もいましたし、礼拝のあとでも、ぜひ話をしたいと言って次々学生が来た。その話を聞くと、ほんとに暗い気持ちの中で光を求めているのがよく分かる。ああ、みんなやっぱり救い主を求めてるんだ、救い主に会いたいんだ、救い主のことばを聞きたいんだとつくづく思いました。だからこそ、キリストの輝く光を宿したものとして、暗い現場を訪問することが何よりの奉仕になるのです。
 礼拝のあとで牧師先生方とお話しする時間があったんですけども、「今日のお話は衝撃的でした」って言われました。まあ、カトリック司祭の話が珍しかったっていうのもあるんでしょうけど、考えてみると、救い主が現実の一人の人間の口を通して実際に救いを語るんですから、およそすべての福音宣言は「衝撃的」であるはず。牧師先生方が、こんなことも言ってました。「今、わたしたちの間で、『日本のプロテスタント教会の抱える問題は「暗さ」だ』って言う指摘が話題になっている」。それはでも、カトリックだって同じですね。教会とは、キリストの光を輝かせている現場でなければなりません。どこに、わざわざ暗いところに集まろうとする人がいるでしょう。イエスが宿っているものの圧倒的な明るさ、衝撃的なその輝きこそが、何よりの宣言ではないでしょうか
 この世がどれほど暗くても、神の栄光が輝き出たその明るさを、わたしたちは身に帯びるべきです。イエスを宿しているマリアの顔の輝きのように。聖母の挨拶を耳にしたら、エリサベトの胎の子が踊ったとあるじゃないですか。わたしたちもまた、救い主を宿したものとして、たった一言の挨拶でよろこびを作り出せるのです。信じるものの明るさ、希望を、今日一日出会うすべての人と分かち合い、「今夜のクリスマスを一緒によろこびましょう」と、だれかれ構わず堂々と招いていただきたい。遠慮しなくてもだいじょうぶです。日本全国、クリスマス、クリスマスって騒いでますから。日本国民全員、クリスマス知ってます。(笑)でも、こんなチャンス他にないと思いませんか。「今晩クリスマスだから、一緒に教会に行かない?」って誘って、「クリスマスってなんのこと?」って言う人、一人もいませんよ

 今朝もテレビの民放のクラシック音楽の番組でクリスマス特集をやってましたけど、海外の有名な歌姫が出てきて、「わたしにとってクリスマスは本当に特別な、聖なる日です」とか言って、「Oh, Holy Night」を歌うわけです。画面の下には歌詞の翻訳が出てくる。「この苦しみの世界に救いが来た。わたしたちの闇によろこびが訪れた。主の御名を讃えよう。キリストこそ救い主。その栄光を讃えよう。この聖なる夜、キリストがお生まれになった、この聖なる夜に」。日曜日の朝に、全国放送ですからね。「ああ、今日はもう説教なんかしなくても(笑)全国の人がこれ聴いてくれればいいや」って気になりましたよ。テレビでも福音宣言してるんです。わたしたちも、その一言で救われる人が一人でもいるならば、今日、口を開こうじゃないですか。
 番組で次に登場したのはローマ在住の韓国の歌姫で、「わたしはカトリック信者です。クリスマスには、バチカンのクリスマス・ミサにあずかります。わたしにとって、法王のミサはスペシャルなんです」って言って、「アヴェ・マリア」を歌った。全国の人がそれを聞いている。わたしたちも黙っているわけに行かないはず。あのプロボクサーの亀田君でさえ、この前初防衛したときに、リングの上で「メリー・クリスマス!」って叫んでたじゃないですか。救い主の誕生から2千年もたったこの極東の地で、格闘技の選手にすら「メリー・クリスマス」って叫ばせちゃうという事実に、ぼくは神の意地というか誇りを感じます。
 この世界は本当に苦しんでいます。傷ついています。今みんなが求めているのは真の救いであり、真の救い主です。その救い主が誕生する日に、わたしたちも顔を輝かせて、声高らかに宣言しようではありませんか。今日、出会う人一人ひとりに「クリスマスおめでとう」と。「わたしはキリスト者です」と。「わたしにとってクリスマスのミサはスペシャルなんです」と。「この苦しんでいる世界によろこびが訪れた。この聖なる夜、共に賛美と感謝を捧げよう」と。
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BlogPet 今日のテーマ
「暖かくてつい眠くなりますが、あなたの眠気解消法はなんですか?」
コーヒーを飲むとか
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今日の典礼のテーマは聖書全体の中心と言える愛についてです。 エルサレムに向かって最後の旅をしておられるイエスに、どれが第一の掟でしょうかと尋ねる律法学者に、イエスは申命記を引用して答えられます。

旧約聖書を引用することにより、神の人間への導きが連綿と続いていること、神のみ国が近づいたことにより神の愛がゆたかに実現しようとしていることを示しています。

「イスラエルよ、聞け……」との呼びかけはあなたにどう響いていますか。

今日の第1朗読と福音はとても力強い響きをもってせまってきませんか。終末の季節は何が一番大切なのかについて改めて問うときでもあるのではないでしょうか。

教皇ベネディクト16世が教皇として出された最初の回勅『神は愛』をお読みになりましたか。この機会にお読みになることをお勧めします。キリスト者が自分の生活における根本の決断をするよう促される書です。


第1朗読は申命記からです。申命記は旧約聖書の中のヨハネ福音書とも呼ばれ、典礼暦年の中で何回か読まれます。今日読まれる箇所は、5章からはじまったシナイ山での出来事と十戒について述べる部分にあたっています。

約束の地への入国を前にして、モーセはエジプト脱出やシナイでの出来事などの歴史を振り返りながら、そこに示された神の愛を思い起こさせ、約束の地に入っても神のおきてを忘れることのないようにとの勧めの言葉を述べます。

「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留めなさい」とは、今日の私たち一人ひとりに向けられた言葉でもあるのです。

第2朗読では、先週に引き続きヘブライ人への手紙が読まれます。旧約の時代には律法によって定められた祭司職の制度がありました。今日読まれる箇所は旧約の祭司職とイエスの祭司職との違いについて述べています。

イエスの祭司職はレビ族のそれとは根本的に違っています。神は、「永遠に完全な者とされておられる御子を 大祭司としたのです。」


今日の典礼の中でキリストの代理としていけにえをささげる司祭とこころをあわせ、祈っていきましょう。ミサに参加する信徒は「聖なる民、獲得された民、王の祭司」として司祭の手をとおして自分自身をささげるのです。

*        *        *        *

福音書においてマルコは今日の箇所をイエスのエルサレム入場後の出来事として述べます。
第1朗読 申命記 6章2〜6節

 あなたもあなたの子孫も生きている限り、
 あなたの神、主を畏れ、
 わたしが命じるすべての掟と戒めを守って
 長く生きるためである。
 
 イスラエルよ、
 あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。
 そうすれば、あなたは幸いを得、
 父祖の神、主が約束されたとおり、
 乳と蜜の流れる土地で大いに増える。
 
 聞け、イスラエルよ。
 我らの神、主は唯一の主である。
 
 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、
 力を尽くして、
 あなたの神、主を愛しなさい。
 
 今日わたしが命じる
 これらの言葉を心に留め※〔なさい。〕
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