Raphael
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信頼に満ちた委託について
――イエスに全信頼を寄せ、自己を明け渡す行為について――*

『御心の勝利』誌No.71 に掲載されたこのエピソードは、とてもよい内容だと思いましたので、ご紹介致します。(2006/3/1)


1970年11月19日、かつて聖ピオ神父様から「あなたの魂のなかに天国全部がある」と言われたことがある一人の司祭が88才でその生涯を閉じました。この司祭は名前をドリンド・ルオトロといいました。「ドリンド」とは「苦しみ」という意味であり、実にドリンド神父の生涯はこの「苦しみ」に彩られたものでした。子供時代、青年期、神学生時代、そして司祭になってからも、いつの時も彼の人生は屈辱に満ちていました。ある司教が、「あなたは殉教者となるでしょう。しかし、それは血による殉教ではなく、心の殉教でしょう」と彼に言った予言的言葉が現実のものとなりました。大きな苦しみのなかで、ドリンド師はますます父なる神に自分自身を委ねつくす子供となっていきました。「私は哀れな存在です。無そのものです。私の力は祈り、私の導き手は神のご意志です。でこぼこ道を保障してくださるのは御母マリアです」

神は彼の信頼に満ちた委託に対して、御自らがこの謙遜な魂に語るという親密さで応えられました。ドリンド神父を通して人生で出合う試練について私たちに語って下さったみ言葉を、イエスが「私だけの」ために個人的に語られた言葉として受け入れましょう。

もし、舟のなかで主が眠っていらっしゃるように思われるなら、それは、嵐の中を信頼しきって主のもとに行き、主にすべてを明け渡し、主からのみあらゆる助けを待ち望むということなのです。

なぜあなたがたはそうもたやすく不安になり動揺するのか? さあ、心配事を私に委ねなさい。そうすれば万事が落ち着くだろう。まことに私は言う。私に心から信頼し、すっかりと私に委ねきって行動するなら、あらゆる行為はあなたがたが切に望む作用をもたらし、茨に満ちた苦しみの状態からあなたがたを解放するだろう。私に自分自身を委ねるということは、不安になり、動揺し、絶望し、それからようやく私の助けを求めて感情的な祈りに私に向けることではない。そうではなく、むしろ、私が一人であなたがたを向こう岸に連れて行けるように、あたかも母の胸に眠る幼な子のように魂の目を静かに閉じて私に任せきるということなのだ。あなたがたを混乱させ害するのは、あれこれの思いわずらいや自分に対する心配事、自責の念である。しかも、あなたがたは何が何でもすべてを自分自身でしなければならないと思い込んでいる。
もしも霊魂が、霊的および物質的な問題や必要において私に心を向け、私を見つめようと努力しつつ、『あなたが取り計らって下さい!』と信頼を込めて言うなら、私はどれほど多くの業を成し得ることだろう。もっと霊魂は魂の目を閉じて私の腕の中で安らぐべきなのだ! もし、あなたがたがあまりにもあれこれと思い悩むなら、わずかの恵みしか受けないだろう。反対に、あなたがたの祈りが完全に信頼に満ちたものであるなら、豊かな恵みを受けるだろう。

苦しい時、あなたがたはその苦しみを取り除いて下さいと私に祈る。それもあなたがたが思い描く通りのかたちで聞き入れてもらいたがる。たしかに私に心を向けはするが、あなたがたの考えに私のほうが合わせるということを望むのだ。それはまるで医者に治療を頼みながら、治療の仕方を医者に指図する病人のようではないか。いや、そのようにではなく、私が『主の祈り』で教えたように祈りなさい。
『み名が聖とされますように』とは、『私のこの苦境においても、あなたは賛美されますように!』ということだ。『み国が来ますように』とは、『あなたのみ国を私たちと世界の中に造りあげるために、すべてのことが役立ちますように!』ということ。『み心が天に行われるとおり地にも行われますように』とは、『私のこの問題において、この世の命と永遠の命にとってよりよいとあなたが思われるようになさって下さい!』ということなのだ。

もしあなたがたが私に向かって本心から『み旨が行われますように』あるいは、『あなたが取り計らって下さい』と言うなら、私は神なる全能の力をもって介入し、もっとも困難な問題をも解決するだろう。もし状況が良くなるどころか悪化するのを見たとしても、動揺してはならない。ふたたびあなたの魂の目、心の目を閉じて、信頼しきって私に言いなさい。『み旨が行われますように。主よ、あなたが取り計らって下さい』と。
医者が患者の面倒をみるように、私が全知全能の力を持ってあなたを助けると約束しよう。必要とあらば、そうとも、私は奇跡を起こすこともできるのだ。だから、もしあなたの病状が悪化したとしても動揺してはならない。心の目を閉じて、あらためて私に言いなさい。『あなたが取り計らって下さい!』と。

そうすれば、『わたしが計らう!』と約束しよう。

心配したり、ある事柄の結果について悩んだり、物事の成り行きを自分で考え行おうとしたりすることは、本当の委託とは逆の行為である! それはまるで、自分の要求を満たしてくれと母親に駄々をこねる子供のようなものだ。もし子供たちが何から何まで自分勝手に行うなら、彼ら自身の考えや計画、気分などが、母親からの本当に必要な助けを妨げたり遮ったりすることになる。だから、あなたがたの『自己』の目を閉じ、私に任せなさい。静かに目を閉じ、内なる眼差しを完全に私に向けなさい。未来に関する考えは試みの一つとして断ち切りなさい。静かに私のうちに安らぎ、私の善良さを信じなさい。あなたがたがこのような心で私に向かい、『あなたが取り計らって下さい!』というなら、いわば『私の愛』において誓おう。私が完璧に計らい、あなたがたを慰め、自由にし、導くであろうと。

あなたがたの考えとは別の道に導かなければならないとしても、私はあなたがたを腕に抱えていこう。なぜなら、『私の愛』の介入以上に効き目のある薬はないのだから。しかし次のことに心を留めておきなさい。私の計らいは、あなたがたの内的眼差しが私に向けられている時だけ、つまり、あなたがたが私の介入を心から望み、完全に私に信頼している時だけ行われるということを。そう、あなたを私にすっかり委ねきっている時だけ!

あなたがたがすべてを評価検討し、何から何まで確認し、あらゆる出来事について一緒に考えようとするなら、不眠症になってしまうだろう。しかもこの時、あなたがたは自分の愛しい『自己(エゴ)』という単なる人間的力により頼む。あるいはもっと悪いことには、誰かの助けを信頼することによって『人間』により頼むのである。
このようなことは、あなたがたに対する私の計画を妨げるものだ。あなたがたに贈りものを渡せるように、ああ、私はどれほど真実の委託を望んでいることか。そして、あなたがたが不安になり、絶望するのを見て、どれほど心を痛めていることか!

そして、それがまさしくサタンのねらいなのだ。何としてでも不安と絶望に陥れてあなたがたを私の働きと愛からもぎ取り、まったく人間的な考えと行動にあなたがたが身を任せるようにし向けることこそが……。
だからこそ、私に完全に信頼するように! 私のうちに安らぎなさい! すべてにおいてあなた自身を私に委ねなさい! 私に対するあなたがたの信頼の完全さと、あなたがた自身に対する不信の度合いに応じて私は奇跡を行うだろう。すべてを自分自身で吟味検討するような人は、一度も私の奇跡を体験したことがないし、そのような人が奇跡を起こしたこともない。自分自身を完全に神に与え尽くして神と共にいる人だけが奇跡を起こすのだ。

事態がさらに複雑化するのを見た時には、心と魂の目を閉じて言いなさい。『イエスよ、さあ、あなたが取り計らって下さい!』と。そしてあなたがたの『自己』から離れなさい。なぜなら、あなたがたの落ち着きのない理性は事態を更に悪化させ、私により頼むことをほとんど不可能にするからだ。どんな困難な状態にあるときにも、いつも『自己』から離れなさい。そうすれば、あなたがたは大いなる奇跡、静かで持続性のある奇跡を体験するだろう。それは外面的にセンセーショナルなものではないが、あなたがたにとっては偉大な奇跡であり、私に対する本当の信頼と愛を強めることになるだろう。あなたがたの神である私が計らうことを保障しよう。

いつもこのように委ねきった心で祈りなさい。そうすれば、あなたがたは大いなる内的平安を得て、私の愛の本当の実りを受け取るだろう。たとえ私が「犠牲」「つぐない」「愛」という恵みを要求する時、つまり、あなたがたに苦しみの十字架を与える時でさえも……。
このようなことは不可能に思えるだろうか? 再び目を閉じ、眼差しをあなたがたの内部に注ぎ、心の底から祈りなさい。『イエスよ、あなたが取り計らってください!』と。
心配する必要はない。私はまことに計らう。そしてあなたがたはすっかり謙遜になり、私の名を賛美するだろう!

私たちのどのような祈りよりも、完全な信頼を込めて行うたった1つの委託の行為ほど主の聖心に叶うものはありません。
ですから、委託の祈りのノベナ以上に力強い祈りはないといえましょう。

<< イエスよ、私のすべてを委ねます。あなたが取り計らって下さい! >>
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2006.3.31
ヨハネの黙示録
16:2 そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を
押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。
16:3 第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、
その中の生き物はすべて死んでしまった。
16:4 第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。
16:5 そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、
かつておられた聖なる方、/あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださ
ったからです。
16:6 この者どもは、聖なる者たちと/預言者たちとの血を流しましたが、/あな
たは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。」
16:7 わたしはまた、祭壇がこう言うのを聞いた。「然り、全能者である神、主よ、
/あなたの裁きは真実で正しい。」
***
7人の天使たちが神の怒りの鉢を地上と海と川とに注ぎ、それぞれに徹底的な「裁
き」「終わり」「報復」がもたらされます。
すでに、何回も7回とか7人とか7という数字が出てきてますが、それは神様の完
全性や十全性を表すものであり、同時にその徹底的な裁きの完全性を意味するもの
だとも言われています。
預言者たちを殺し、キリスト者たちを迫害してきたすべての勢力に対して、神様ご
自身が最終的には清算をなさいます。
ここでは、獣に追随している人たちと海と川に対する裁きが実行されます。それは
出エジプト記のモーセの出来事と似ています。最終的な支配者は誰なのかを明確に
表明しています。裁きの現実はすべての部分にもたらされます。
それは厳粛なものであり、その裁きは徹底的なものです。神への冒涜、神の民への
迫害や妨害のすべては最終的には神様に覚えられており、間違いなく決算がなされ
ます。全世界的な規模で、新しい天と新しい地が出現する前触れとしても裁きが執
行され、神様に対して反抗的なすべての古いものが一掃される日があるのです。

当時のクリスチャン達の目の前には、具体的に見えてくる希望はありませんでした。
自らの迫害による死や村八分の状況ばかりが厳しい現実として迫っていたからです。
そういう中で、これらの黙示録の言葉こそ、希望につながる御言葉として心を鼓舞
するものになったはずです。
最終的には「神の勝利」があるのだという信仰こそ、わたしたちが、どのような状
況の中でも平静に生きていける土台です。
神様の前に高慢にならず、神様の最終的な勝利を信じて、今を丁寧に生きること、
そこに人格的な成熟があるのです。
きょうペテロがここで暗示するつもりだった?

きのう、ここでミっぽい制限するはずだった。
*このエントリは、B l o g P e t(ブログペット)の「ネズミ講」が書きました。




*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ペテロ」が書きました。
こないだ、猫好きが
神殿の栄光と力とから立ち上る煙とありますが、これは、神様が全精力を傾けて、天使に向けて動き出していることを暗示しています。
とか書いてた?

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミルク」が書きました。
昨日、まりこが
災いとか神殿の怒りとかあまり聖書になじまないような気がしますが、決してそうではありません。
って言ってたよ。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「マグダレーナ」が書きました。
きょうはインマクラタは、ここへmarikoで、制限したかった
ラファエルが、ネットでエントリとか、ジョセフなど書きました
きょうラファエルたちが、ジョセフをブログペットしたかった
ネットでエントリとか、ジョセフをブログペットしたい
インマクラタは、BlogPet(ブログペット)の「ジョセフはインマクラタは、エントリをブログペットしたい」
インマクラタたちが、ネットでジョセフとかをブログペットしたかった
と、ラファエルが言ってたよ♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「インマクラタ」が書きました。
きょう、ネズミっぽい制限した。

昨日、セバスチャンが人はそれぞれ、一度死ぬことと、そののち、制限の前に立って裁かれることが定まっています。
って言ってたよ。
*このエントリは、B l o g P e t(ブログペット)の「ガブリエラミスティカ」が書きました。




*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「」が書きました。
広いエントリや大きいエントリを制限したかったの♪
サビオ君は、ネズミとか大きいネズミとか書きました
と、サビオ君は思ったの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「サビオ君」が書きました。
ネットで大きいエントリと、エントリと大きいエントリをデルフィーヌしたかったの♪
今日大きいエントリなどをブログペットしないのエントリは、BlogPet(ブログペット)
の「ハム太郎やエントリをブログペットしなかった?」
エントリと広いエントリなどをブログペットしないの?
tamiyaは、BlogPet(ブログペット)の「デルフィーヌ」
が書きました
今日ネットで大きいハム太郎やエントリをブログペットしなかった*このエントリとか書きました*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「デルフィーヌ」
とか思ってるの
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)
の「デルフィーヌ」
だよ♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ジュスト」が書きました。
きのう、ここでミっぽい制限するはずだった。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ネズミ講」が書きました。
今日、ふわふわが
*神様のエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ガブリエラミスティカ」が書きました。
っていってたの。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「縷縷」が書きました。
今日の聖句
2006.3.30
ヨハネの黙示録
15:5 この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋の神殿が開かれた。
15:6 そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使

ちは、輝く清い亜麻布の衣を着て、胸に金の帯を締めていた。
15:7 そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒

が盛られた七つの金の鉢を、この七人の天使に渡した。
15:8 この神殿は、神の栄光とその力とから立ち上る煙で満たされ、七人の天使

七つの災いが終わるまでは、だれも神殿の中に入ることができなかった。
******
神殿から7つの災いを携えた7人の天使が登場します。4つの生き物が7つの金

鉢を彼らに渡します。そこには神の怒りが盛られています。災いとか神の怒りと

あまり聖書になじまないような気がしますが、決してそうではありません。神様

愛ですが、同時に聖なる方、義なる方であり、神様への冒涜や妨げ、迫害や高慢

そのままにされることは決してありません。
十字架による赦しの提供があったにもかかわらず、相変わらずその提供を断り続
け、
相変わらず神様への冒涜を続ける人間および、その背後で彼らを支配し、神様と

闘争を繰り返す悪の巣窟、サタンに対して神様は断固とした裁きを実行なさいま
す。
それは、その向こうにある「新しい天、新しい地」への序章であり、神様がすべ

のことを「新しくする」という約束の実行に他なりません。
目に見えるものも、見えないものも、命ある存在はすべて最終的には、神様の支

を明確に知るようになるのです。
神殿の栄光と力とから立ち上る煙とありますが、これは、神様が全精力を傾けて

最後の審判に向けて動き出していることを
暗示しています。神様の本気の度合いとでも言ったら良いかもしれません。
いよいよこれからクライマックスに入ります。
ジョセフは、ここへmarikoで制限されたみたい…
ここでエントリとか制限したかも。
きょうmarikoで、制限しなかったー。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ジョセフ」が書きました。
昨日、セバスチャンが
人はそれぞれ、一度死ぬことと、そののち、制限の前に立って裁かれることが定まっています。
って言ってたよ。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ガブリエラミスティカ」が書きました。
今日、らふぁえる兄さんが
あなたの懲らしめの制限が私を打ち砕き、へりくだった、罪を悔いる心が与えられますように。
とか思ってるよ。

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「キャット」が書きました。
tamiyaは、BlogPet(ブログペット)の「デルフィーヌ」
が書きました
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「デルフィーヌ」
とか思ってるの。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ハム太郎」が書きました。
きょうデルフィーヌは、制限したかも。
がミカエルは下は断食したかった。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「デルフィーヌ」が書きました。
四旬節も漸く深まって来ました。カトリックでは、大斎は
いつ頃からか忘れましたけれど、ぐっと緩和されて、今では、灰の水曜日と、聖金曜日だけになっていますが、東方正教会(ロシア正教など)では、今でも、七週間に及ぶ毎日の大斎の掟が生きているようです。(勿論、それはできる人ならば、と言う条件付きのことのようですが)。

下にその掟の概要を添付して置きます。ちょっと読みにくい、分りにくいところがあるのは、ご寛恕を。

 長崎のカトリック信者は、禁教時代、これに匹敵するような四旬節の断食を守っていたようです。

「浦上の衆は不思議なことに、冬から春にかけては、みんな、頬がこけて、元気がなくなる。」と長崎の人達は言っていたという伝えがあります。
  

正教会の
斎のルール

 このように発展した大斎の中で、厳密にはどのような斎のルールが要求されているだろうか。
 古代でも現代においてもそれは一字一句同一のものではなかった。しかし、ほとんどの正教会は次のルールを守っている。

(1)「税更とファリセイの主日」と「放蕩息子の主日」の間の週には、一般にすべての斎が免除   される。肉や、動物性の食品は水曜、金曜でも食べてよい。
(2)それに続く週、しばしば「カーニバル(謝肉祭)の週」と名付けられる週は、通常期の斎が   水曜、金曜に守られる。言い変えるなら特別な斎はない。
(3)大斎の直前の週には肉食が禁じられるが、卵やチーズなど酪農製品は水曜、金曜を含み毎日   食べてよい。
(4)大斎の七週の平日(月曜から金曜)には、その日にとる食事の「回数」も、許された「食べ   物の種類」も制限される。しかし、食事することがが認められる時、食べる食物の「量」の   の固定された制限はない。

(a)第一週の平日の斎は特に厳しい。その厳しい規定によると最初の五日間にたった二度しかとらない。すなわち水曜と金曜の先備聖体礼儀後に食事をとる。他の三日〔月火木〕には、その力がある人は完全な断食を守り、それが実行不可能な人は火曜と木曜の晩課後の夜に、調理された食事でなくパンと水、もしくはお茶やフルーツジュースをとる(もし可能なら、月曜には食べない)。同時に今日の習慣では、これらのルールは一般的に緩和されていることを付言しておこう。水曜と金曜の食事には、「クシロファギイ(xerophagy)」が指示されている。文字通り訳せば「乾燥食品(転じて禁欲的な食事)」である。厳密に言うと、水と塩で調理された野菜のみを、また果物、木の実、パン、蜂蜜といったものを食べる、ということである。実際にはクシロファギイの日には、タコや貝類も認められている。また、植物性マーガリンとコーンや他の植物性油(オリーブから作られていないもの)も同様である。しかし次にあげた食べ物のカテゴリーは確実に断食される。
 、肉
 、動物性の食品(チーズ、ミルク、バター、卵、ラード、脂肪)
 、魚(すなわち背骨のある魚)
 、油(すなわちオリーブオイル)とワイン(すなわちすべてのアルコール飲料)

(b)大斎第二、三、四、五、六週の平日(月曜から金曜)には、一日一食が認められる。それは、晩課後の夜にとる。この一食では「クシロファギイ」が認められる*42。

(c)受難週。最初の三日間ではそれぞれ「クシロファギイ」で一日一食とる。しかしこれらの日に完全な断食を守ろうとする人、もしくは調理していない食ベ物のみを食べようとする人は大斎第一週と同じようにする。
 聖大木曜日には、ワインと油(すなわちオリーブオイル)で一食のみ食べる。
 聖大金曜日には、その力のある人は初代教会の慣習にならい完全な断食を守る。それができない人は少量の水、お茶またはフルーツジュースでパンを食べるようにするが、しかし、日没までか、とにかく晩課の眠りの聖像の伏拝が終わるまで食事しない。
 聖大土曜日には原則的に食事をとらない。古代教会の習慣に従うと、聖大ワシリイの聖体礼儀が終わった後「使徒行伝」を誦読するために信者は教会に残る。そして、彼等の持久のために少量のパンと乾燥した果物とカップ一杯のワインが与えられる。現在普通になっているように、信者がもし家に帰って食事するならば、オイルは食さないがワインは飲んでよい。すなわち、一年間の土曜日の中でこの日だけがオリーブオイルの許されない土曜日である。

 次のような日には、「クシロファギイ」の規定がゆるめられる。
① 聖大土曜日を除く斎中の土曜日、日曜日にはいつものように日中と夜に主要の食事を二回とる。ワインとオリーブオイルは許される、肉、動物性の食品、魚などは許されない。
② 生神女福音祭(3月25日〔4月7日〕)と聖枝祭には、ワインとオイルと同様に魚が認められる。しかし肉や、魚以外の動物性の食品は許されない。もし、生神女福音祭が受難週の最初の四日に当たったら、ワインとオイルは許されるが魚は認められない。もし聖大金曜日、聖大土曜日に当たったら、ワインは許されるがオイルと魚は認められない。
③ もし次にあげる日が第二、三、四、五、六週の平日に当たれば、その日はワインとオイルが許される。
・授洗イオアンの聖首の第一、第二の発見(2月24日〔3月8日〕)
・セヴァスティヤの四十人の聖大致命者(3月9日〔3月22日〕)
・生神女福音祭の前期(3月24日〔4月6日〕)
・神使首ガウリイルの会衆祭(3月26日〔4月8日〕)
・その聖堂または修道院の守護聖人の祭
④ 大斎第五週の水曜日と木曜日にも、アンドレイの大カノンの祈祷のためにワインとオイルが許される。同じ週の金曜日には、アカフィストの晩祷のためにワインが――ある典拠によればオイルも――許される。

 これらの斎のルールは、年老いた人や体の虚弱な人の場合には緩和されることが常に守られてきた。現代の斎の習慣では普通、健康な人でさえも、斎のその完全な厳しさは軽減されている。今日では大斎第一週の月曜日、火曜日、木曜日に、または受難週の最初の三日間に、完全な断食を守ることを試みているのはほんのわずかな人たちである。平日には――おそらく第一週と受難週の間は除いて――一日一食でなく、一日二回の調理された食事を食べるのが、現在一般となっている。第二週から第六週まで火曜日、木曜日に、また一般的とは言えないが月曜日にも多くの正教徒はワインを飲み、そして多分オイルも使っている。たとえば、正教徒でない家庭に生活していたり、会社や学校の食堂で食事をとることを余儀なくされている狐立した正教徒の立場など、個人的な要因を考慮する必要がある。あいまいな場合はそれぞれ、その人の精神的な父〔神父〕の助言を求めるべきである。いつの時でも、「あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」(ロマ6:14)ということ、そして「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリンフ後3:6)ということを心の中に言い聞かせていることが絶対必要である。斎のルールは、まじめに取り組む必要はあるけれども、陰鬱な、ひけらかしの律法主義に解されてはならない。「神の国は飲食ではなく、義と平和と聖神(聖霊)に於ける喜びとである」(ロマ14:17)。

ネットで広い御心とか自分とか、祈り主などを打ち砕き、へりくだった、罪を悔いる心が与えられますようにしてください
懲らしめを求める
そして、自分や、自分や、自分がどれほど神と人とに罪を悔いる心をお与え、打ち砕かれた、罪を悔いる心とか自分の目のために黙想する主のみ言葉は「私は世の光を持つ」
アーメン!


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「インマニュエル」が書きました。
ヨハネの黙示録
14:8 また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロン

倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。

14:9 また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣

その像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、
14:10 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶど

酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめら

ることになる。
14:11 その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、ま
た、
だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」
14:12 ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの

耐が必要である。
14:13 また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、

に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解

れて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」
****
第2の天使の報告は「大バビロンが倒れた」というものでした。神様に対する冒

と背信に満ちた大都市が崩壊したというニュースです。
さらに第3の天使は「獣に組する者たちへの神の怒り」が報告されています。苦

みの煙が世々限りなく立ち上り、昼も夜も安心が無い状況に置かれるという裁き

恐ろしいものであり、終ることのない苦しみが存在することがわかります。
神様はありとあらゆる冒涜、背信、不信に対する決着をつけてくださいます。大

ビロンについては黙示録17-18章に詳しく書かれています。神様を冒涜するも

たちについては、終ることのない裁きの苦しみを味わうことが教えられています

それに対して、イエス様を信じ続ける人たちへの平安の宣言も同時になされてい

す。
彼らは労苦を解かれて安らぎを得る」とありますが、詳細は後半の章に書かれて

ます。
信仰者の死は、高慢な冒涜者の死とは雲泥の差があります。
信仰者の死の向こうには「安らぎ」と「報い」があるのです。それが聖書の教え

希望です。もちろん死に急ぐ必要はありませんが、間違いなく、信仰生活におけ

労苦が報われる日があるのです。
当時のクリスチャンたちには迫害があり、生活そのものが困窮と離散の危機にあ

ました。
しかし、彼らは喜んで主を礼拝し、主の道である十字架の道、苦難の道を選んだ

です。
この世では報われることの少ない人生だったかもしれません。しかし、彼らはこ

地上での人生の先をしっかり見据えていたのです。その生き方は、神様に喜ばれ
る、
報いが約束されているものでした。自分の歩みが神様から報いを受けるものだと

う確信はありますか?人のことではなく、自分自身の歩みが神様に喜ばれるもの

されているでしょうか?
人はそれぞれ、一度死ぬことと、そののち、神様の前に立って裁かれることが定

っています。そこで、評価と報いを受けるのか、叱責と裁きを受けるのか、その

は大きく分かれます。天国か地獄かという決定になるからです。
「主に結ばれて死ぬ」人となりましょう。そこにだけ報いと永遠の希望があるか

です。
悔い改めの気持ちを求める祈り

  主よ、
  私に悔い改めの恵みを与え、
  打ち砕かれた、罪を悔いる心をお与えください。
  自分の目の中の丸太が見えるようにしてください。
  そして、自分がどれほど神と人とに罪を犯したかに気づかせてください。


 懲らしめを求める祈り

  父よ、
  この身を御心のままになさってください。
  懲らしめに自分をゆだねます。
  あなたの懲らしめの手が私を打ち砕き、
  へりくだった、罪を悔いる心が与えられますように。


 この祈りのために黙想する主のみ言葉は
『私は世の光、私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』

  アーメン!
きょうは、ここへサルとか表現したかったの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パパイヤ」が書きました。
ふらんたちが、エントリをブログペットすればよかった?
がらとつぶやきやつぶやきや、ネットで広いがらをインマクラタしなかった
ハーレーラビットが、がらなどしなかった?
がらなどをインマクラタしなかった?
ふらんが、ネットで大きいエントリは、BlogPet(ブログペット)の「インマクラタ」
がらぶりーのつぶやきをインマクラタしなかった
きょうふらんたちが、がらとつぶやきや、つぶやきなど読んで書きました
だって♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ハーレーラビット」が書きました。
当時、sebastianがあふれています
すべてはサルと不自然とか、要素などを表現し皇帝と、皇帝と、すべての者に適用すると不自然とか、いじめとか、ギリシャで大きい綴りとか、要素などを表現しなかったの者に適用すると、広い身分などあふれています
ガブリエルが、ギリシャで不十分とかを表現し皇帝や、人間とか書きました
と、ガブリエルは思ったの♪


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ガブリエル」が書きました。
いつも、ネコ好きは
*このエントリは、BlogPet(人間)の「インマクラタ」がらぶりーのつぶやきを読んで書きました。
って言ってたけど…

*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミカエラ」が書きました。
今日の聖句
2006.3.25
ヨハネの黙示録
14:1 また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。
14:2 わたしは、大水のとどろくような音、また激しい雷のような音が天から響くのを聞いた。わたしが聞いたその音は、琴を弾く者たちが竪琴を弾いているようであった。
14:3 彼らは、玉座の前、また四つの生き物と長老たちの前で、
新しい歌のたぐいをうたった。この歌は、
地上から贖われた十四万四千人の者たちのほかは、
覚えることができなかった。
14:4 彼らは、女に触れて身を汚したことのない者である。彼らは童貞だからである。この者たちは、小羊の行くところへは、
どこへでも従って行く。この者たちは、
神と小羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われた者たちで、
14:5 その口には偽りがなく、とがめられるところのない者たちである。
***
神様への新しい歌を歌っている「14万4千人」の姿が再び現われます。
この数字は、キリストに属する人たち全員を象徴しているものであり、間違いなく、神様によって知られ、
キリストを信頼している人たちのことです。
この描写はふたたび、天での出来事になっていますが、
新しい賛美をしている人たちの特徴は、地上から贖われ、
地上での役割を終え、イエス様との関わりについて純潔、純粋な生き方をし、イエス様の後にどこにでも従順について行く姿勢を貫き、
神様に対する「捧げ物」「献身者」という自覚を持ち、
言葉にも行いにも汚点のない存在として記録されています。
つまり、しっかりイエス様の十字架による罪の赦しと永遠の命を味わっており、その生き方全体が小羊イエス様の心に合致させた生き方になっているのです。イエス様が喜ぶことを喜びとし、
イエス様が悲しむことを悲しみとして生きてきた人たちなのです。
その言葉にも行いにもイエス様の恵みを表明しながら生きた人たちです。イエス様だけを救い主として信頼している人たちです。
さて、シオンの山というのは、礼拝の場であり、神の恵みの山として理解されています。救われた者たちは、キリストと共にそこに立つのです。そして、彼らにしか歌えない新しい歌を歌うのです。
キリストの救いを知らない人たちには決して心から歌うことができない歌があるのです。恵みを知っているからこそ、
歌える賛美があるのです。
主への賛美を捧げながら地上でのいのちを燃やし続けましょう。
やがてシオンの山に立つ日が来ますから。
きのうはmarikoのものに差別するつもりだった。
ここまでエントリっぽい差別したかもー。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ペテロ」が書きました。
ミルクがblogするはずだった。
猫好きとblog♪
猫好きでblogしなかったー。
きょうミルクはつぶやきblogするつもりだった?
ここで猫好きでつぶやきはblogしたかった。
猫好きでつぶやきはblogー!


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「ミルク」が書きました。
前、綴りとか、すべての者に適用すると、不足、不十分という要素があふれています
聖書では、信仰者たちへの圧制は厳しく弾圧は厳しさを表現しなかったよ
200s=66となると言われています
当時の皇帝ネロ・
カエサルの綴りがrsqnwrnであり、不自然とかするもの
ギリシャで人間を象徴したかったの♪
いじめとか身分とか言うことさえできるように、信仰者たちにはあります
と、マグダレーナが考えたの。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「マグダレーナ」が書きました。
きょう、エントリblogしなかったー。


*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「インマクラタ」がらぶりーのつぶやきを読んで書きました。

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